1990年代における日本経済の低迷は、これまで日本経済の高パフォーマンスを支えてきたとされてきた日本的雇用慣行、下請システム、メインパンクシステムなどの固定的・継続的取引関係に対する疑念を生みだし、「市場原理」を生かすことが経済再生の道であると多くの論者が主張するようになった。この論文は、このような「市場原理」が必ずしも自明のものではないことを、理論的に明らかにしようとしたものである。具体的には、いわゆるsearch and matching理論を基本的な枠組みとした労働市場の均衡モデルを構築し、労働市場の流動化を促す変化、つまり職業紹介事業の自由化や技能の汎用性の高まりといった変化が、技能形成、雇用の継続性、職の創出といった要因にどのような影響を与えるか、その結果として失業にいかなる変化をもたらすかを分析している。労働市場の摩擦が減少することは、直接には、企業利益の上昇を通じて職の創出を促進し、失業を減少させる。更に、職の創出の拡大は技能活用の機会を拡大させるので、技能形成は促進される。しかし一方では、労働市場が流動化すると、雇用関係の不安定化が引き起こされる可能性がある。このため、技能形成は抑制されるとともに、職の創出は減少する。そして雇用の不安定化と職の創出の低下は、失業の増加をもたらすことになる。この博士論文では、労働市場の流動化に伴うこのような二つの相反する効果に関して、労働者の技能が企業特殊的な場合、企業特殊的と一般的なものの中間である場合、そして一般的な場合それぞれについて厳密に分析し、政策決定においてその二つの効果の間の比較考量を注意深く行わなければならないことを示唆している。 この博士論文の構成は以下の通りである。 1 はじめに 2 ホールドアップ問題と失業 3 企業内の技能形成と外部労働市場 4 一般的技能と労働市場の環境変化 5 本研究のインプリケーションと今後の展望 以下では、各章の内容について、もう少し詳しい説明を試みる。 第1章では、日本の労働市場の動向を概説するとともに労働市場の流動化に関する「通説」が紹介され、この論文が書かれることになった背景や目的が提示される。また、この論文全体で使用されるsearch and matchingモデルの標準的な理論についての簡単な解説が与えられ、なぜこの論文の目的のためにはこのモデルが必要であるかが述べられている。さらにsearch and matchingモデルに関して、この論文で提示されたモデルと既存の文献のなかのモデルとの比較がなされている。 第2章では、労働者による企業特殊的技能の形成と企業による新規の職の創出に分析の焦点があてられる。 この章では、search and matchingモデルの枠組みのなかで企業特殊的技能形成に関する分析を可能にするために、企業と労働者のmatchの解散確率を内生化したMortensen-Pissaridesのモデルが採用され、さらに、企業特殊的な技能の蓄積に関して企業と労働者が拘束力のある契約を書けない不完備契約の世界が想定される。このような世界においては、技能形成のコストに関しては労働者が負担しなくてはならないのに対して、その便益は事後的な交渉によって労働者と企業で分割されてしまういわゆる「ホールドアップ問題」が発生してしまうことになる。その結果、技能形成に関して労働者から企業への外部性が発生し、企業特殊的な技能形成の蓄積が過小になってしまうことになる。このような環境のなかで、労働市場が流動化すると、企業のサーチコストが減少し、企業の参入が促進される可能性が高まる。ところが、労働移動が激しくなることで、蓄積した企業特殊的訓練が無駄になりやすくなるから労働者の技能水準は引き下げられる。それは労働者の技能蓄積の外部性を享受している企業の利益も低下させ、企業の労働市場への参入は抑制され、失業が増大することになる。流動化の失業に与えるネットの効果は、直接の効果と技能を通じた効果の相対的大小に依存する。労働市場の流動化によって技能が大きく減少するならば、企業による職の創出が減少し、失業は上昇する可能性があるのである。 さらにこの章では、流動化が経済厚生に与える効果も分析される。労働市場の流動化そのものは、生産活動をしない経済主体を減少させるので、経済の効率性を高めるが、同時に(すでに最適水準以下である)技能蓄積の水準が低下することになるので、経済厚生はそれだけ引き下げられてしまう。労働市場の流動化が何をもたらすかは、技能がどれだけ変化をするかによって、大きく変わってくるのである。 第3章においては、技能形成に関して第2章よりも一般的な枠組みで労働市場の流動化が分析されている。すなわち、労働者の技能は完全に一般的な技能と完全に企業特殊的な技能の中間であり、技能の生産性の一部は他の企業でも生かせる場合を考える。ただし、技能の水準に関する契約は完備契約であるとし、技能形成は企業と労働者の共同作業として再定式化される。また、この章では分析を簡単にするために2期間モデルが採用されている。 この章の分析は、二段階に分けられている。第一段階では、労働者のmatching確率は外生的なパラメーターとされ、それが上昇した時の効果が分析され、企業内訓練が促進される場合と、抑制される場合があることが示される。ここで結果が一義的でなくなるのは、技能に一般的な部分が存在すると、外部労働市場でも生かすことができるようになり、流動化が技能形成を促進して雇用を安定化させる力が生じるからである。 第2段階の分析では、労働者のmatching確率が内生化される。そのとき、重要になるのは、一般的な技能の形成に外部性があることである。それは、労働者が他の企業に転職した場合、転職先の企業が労働者の技能から利益を得ることになるからである。従って、技能形成が促進されるときには、転職者を雇用したときの企業利潤が増加するので、企業の参入も上昇する。一方、技能形成が抑制される場合、企業の参入は減少することになる。こうした環境において転職環境が改善することは、企業内訓練に相反する二つの影響を与える。一つには、転職環境が整備されることによって、企業の利益が上昇し、職の創出が促進され、失業が減少する効果である。それは、外部労働市場において労働者が技能を生かす機会が拡大することを意味するので、企業内訓練は促進され、さらに職の創出と失業の減少をもたらすことになる。もう一つは、転職環境が良くなることにより、雇用関係の不安定化が引き起こされる効果である。このとき、失業によって訓練が無駄になる可能性が生じるので、企業内訓練の期待収益は低下し、訓練は抑制される。更に、訓練水準が低下すれば、労働者を雇う利益も減少するので、職の創出は抑制され、失業の増加をもたらす。このような結論は第2章でも得られたが、それは不完備契約のもとでの企業特殊的技能に関する「ホールド・アップ問題」によるものであった。これに対して、この章のモデルにおいては、一般的な技能形成に関する外部性の存在がこのような効果を生みだしているのである。 ところで、Gary Beckerの人的資本論によれば、一般的な技能は労働者が自分の負担において蓄積することになり、労働市場が流動化すると、技能を生かす機会が増え、より多くの技能を蓄積することになるはずである。第4章では、このような直観が必ずしも正しくないことが示されている。たとえ完全に一般的な技能しかない場合でも、雇用の継続性が技能形成にとって重要であり、その結果、労働市場が流動化すると、一般的な技能形成が抑制され、経済厚生が低下する可能性があるのである。 この章のモデルでは、3期間モデルの枠組みを使い、自らの負担で一般的技能を蓄積したばかりの若年の労働者が仕事を探す就職市場と、就職市場で職を得られなかった労働者あるいは就職したが外生的ショックのために転職することにした労働者が職を探す転職市場という二つの労働市場の存在を想定する。このモデルでは、同じ摩擦の減少でも、就職市場と転職市場では、全く別の効果を持つ可能性があることことが示される。就職市場の摩擦が減少すると、労働者は一般的技能をより多く蓄積して、その結果、雇用は安定的になる。ところが、転職市場の摩擦が減少すると、一般的人的資本の水準と労働移動の水準が変化する方向は不確定になってしまう。第一に、労働移動が容易になると労働者は雇用関係を維持するよりも離職をするようになり、雇用は不安定になる。そのため、一般的技能が無駄になる可能性が高まり、技能の蓄積を抑制する方向に力が働くことになる。第二に、転職市場において労働者の職の機会が高まることは、技能が無駄になる可能性の減少を意味し、その結果、技能の蓄積は促進される。更に、技能が増加すると、雇用関係が安定化して、労働移動が減少することになるのである。また、労働市場の摩擦の減少が経済厚生に与える効果も分析されている。 第5章では、本論文における研究をより広い視点から見直し、今後の展望が与えられている。 以上で、この博士論文の内容の概説を試みた。第2章、第3章、第4章でそれぞれ構築されたsearch and machingモデルは、この分野のフロンティアに達しており、興味深い分析結果が得られている。特に、労働市場の流動化が技能形成に与える効果に関して、具体的なメカニズムは異なるが、技能が企業特殊的である場合と一般的である場合の両方において、相反する二つの効果が存在することを示したことは、重要な貢献であると思われる。論理的な展開は、分かり易く記述されており、また得られた結論が、経済学的にどのような意味を持っているかも比較的説得的に議論されている。「市場原理」に基づいた流動化推進論と、「市場原理」に対抗する反流動化論が、きちっとした理論的な考察なしに論戦している現在の日本においてこそ、特殊化されたモデルとはいえ、流動化と技能形成との間の錯綜する関係を理論的に分析したこのような研究が必要であると思われる。 だが、この論文にも、幾つかの問題点が存在する。第一に、第2、第3、第4章で展開された理論モデルと現実の間には大きなギャップが存在していることである。この論文においては、現実の経済における流動化がもつ効果の論理構造を明らかにするだけに終わっており、まだモデルが抽象的すぎて、現実の日本経済に応用できるような定式化になっていない。将来、すでに膨大な蓄積のある日本の労働市場に関する実証研究などを十分に吸収して、著者がより現実味のある労働市場の理論づくりに励んでくれることを望んでいる。第二に、以上の論点に関連するが、この論文では、労働市場の流動化が経済厚生を悪化させる可能性を理論的に指摘しただけであり、実際に悪化するかはモデルのパラメーターの値に大きく依存する。だが、果たして現実の経済がそのようなパラメターの値をもっているかどうかは、不明である。第三に、この論文では失業をもたらす要因としては企業ごとのミクロ的ショックのみが考察されている。だが、現実の労働市場における失業の要因としてはマクロ的ショックも重要であり、今後、ミクロとマクロのショックをともに導入したモデルの展開が望まれる。第四に、この論文で提示されたモデルでは、ショックに対する調整を企業内で行うべきか、企業外の労働市場で行うべきかという、流動化をめぐるもう一つの論点を分析する枠組みになっていない。この問題の分析も将来の研究課題となるだろう。 以上のような問題点があるが、本論文が博士論文に相応しい貢献をしていることは疑いがない。 以上の評価を踏まえ、審査委員会は全員一致で、本提出論文について、博士(経済学)の授与に値するものであると判断した。 審査委員会 (主査)岩井克人 吉川洋 西村清彦 大瀬雅之 福田慎一 |