本論文は、経営戦略論の立場から、90年代における中国の乗用車製造企業、具体的には六大メーカー(いわゆる「三大三小」企業)である上海自工、天津自工、第一自動車、北京自工、広州自工、東風自動車の競争行動と成長戦略の比較分析を行ない、その間の成長性や成長経路の相違を生み出した要因(環境、経営資源、組織能力など)を分析することを目的としている。論文は、全体で9章からなり、第1章が問題設定、第2章が分析枠組、第3章が中国自動車産業の歴史的概観、第4章、第5章、第6章が、それぞれ、比較的成長性の高かった「成長3社」すなわち上海自工・天津自工・第一自動車の戦略分析、第7章が、比較的成長性の低かった「停滞3社」すなわち北京自工・広州自工・東風自動車の比較分析、第8章が本論の分析枠組に基づいた6社の成長性・成長経路の体系的な比較分析、第9章が総括と今後の課題の提示となっている。 第1章では、計画統制から市場経済へと転換しつつある80〜90年代の中国において代表的な成長産業であった乗用車を研究対象に選び、「ほぼ同様の環境変化の中にある中国の乗用車メーカーの間で、90年代半ばの時点で、成長スピードや戦略的経路が異なっていたのはなぜか」という問題設定を行っている。こうした設問に対して、従来の研究は経済体制論・経済政策論的な視点からのアプローチが多く、中国の経済体制の特殊性は十分に考慮されてはいたものの、個別企業間の主体的な競争行動や成長戦略の違いを十分に分析したものは少なかったと指摘する。これに対して、著者は、経営戦略論の枠組を応用し、特に経営戦略・経営資源・環境の動態的な相互作用と変化を重視する戦略形成論の立場からこの問題に取り組む。 第2章では、これまでの中国自動車産業に対する実証分析、および経営戦略論の既存研究のサーベイを踏まえて、動態的な戦略形成論の立場から「企業戦略策定と実行のプロセス」を提示する。そこでは、中国における経済体制・制度などの特殊性も勘案しつつ、個別企業の戦略策定・実行プロセスの企業間の違いを生み出す要因として、(1)環境条件、(2)既存経営資源、(3)企業の戦略構築能力の3つを指摘する。さらに戦略構築能力は、a.認識能力(適切な製品を選択する組織能力)、b.資源投入能力(適切なタイミングで生産能力をい量的に拡大する組織能力)、c.競争力蓄積能力(品質・コストなど質的な競争力を向上させる能力)の3つに分かれるとする。 次に、環境要因として中央政府の国家政策、地方政府の政策、外国企業の戦略、市場の機角・脅威を取り上げ、それらの歴史的な変化を概観した上で、中国乗用車産業の発展過程を「従来の計画経済統制期→技術導入・市場開放期→乗用車ニーズ成長期→市場競争激化期」の4期に分ける時代区分を提示する。そして、各期ごとに、企業の成長にとって影響の大きい環境要因(焦点要因)および最も重要な戦略構築能力(戦略構築の焦点)は変化すると考える。例えば、80年代半ば〜90年代前半の「乗用車ニーズ成長期」における「焦点要因」は「市場の機会・脅威」であり、「戦略構築の焦点」は企業の「資源投入能力」であるとする。 さらに、こうした分析枠組を踏まえて、実証分析(比較ケース分析)を行う上での仮説を提示する。すなわち、(1)90年代半ば時点(乗用車ニーズ成長期)における企業の成長性の相違を説明するのは、第一義的にはその期の「戦略構築の焦点」である「資源投入能力」の違いであるが、戦略行動の累積性・経路依存性を勘案すれば、前期(技術導入・市場開放期)における戦略構築の焦点であった「認識能力」、さらに初期(従来の計画経済統制期)における経営資源の相違も影響を与えること、(2)しかし、比較的成長性の高い企業の間でも、上記の環境条件・経営資源・認識能力・資源投入能力の違いを反映して、企業成長および戦略構築の経路は異なりうることを予想する。 以上の分析枠組を前提として、第3章ではまず、中国自動車産業の歴史的発展過程を概観している。計画経済体制下の国営大型企業(第一自動車・東風自動車)による中型トラック集中生産体制、その隙間をぬった各地の中小メーカー群の成立、80年代以降の改革解放への制度転換と乗用車ニーズの急成長、これに追随した中央政府の産業政策のトラックから乗用車への重点シフト、90年代における新産業政策と競争激化、といった流れが記述・分析されている。 これに続き、第4章〜第6章では、90年代半ばにおける乗用車上位3社、すなわち上海自工・天津自工・第一自動車について、分析枠組に沿った形で乗用車事業の歴史的な成長過程のケース分析が行われている。各社について、主に初期の既存経営資源、技術導入・市場開放期における認識能力、乗用車ニーズ成長期における資源投入能力、市場競争激化期における競争力蓄積能力に注目しつつ、分析が行われている。 上海自工の場合、同地域における自動車修理や部品生産の伝統(初期の既存資源)、長年にわたり一貫した乗用車集中型の戦略ビジョン(認識能力)、「資金の自己蓄積」とドイツVW社との合弁事業による乗用車生産への集中投資(資源投入能力)、そして「生産特区」方式や日本の小糸製作所を通じた日本的生産方式の学習などを通じた品質管理・生産管理のレベルアップ努力(競争力蓄積能力)に注目する。そして、全体として上海自工の成長戦略を「コア能力への集中」として特徴づけている。 これに対して、天津自工の場合は、戦時中のトヨタ・トラック工場など天津地域の小型トラック・バスおよび部品工場のある程度の集積(初期の既存資源)、市場調査に基づくダイハツ製軽自動車・小型乗用車の技術導入決定(認識能力)、商用車の利潤留保を乗用車に回す「以老養新」方式による乗用車工場への集中投資(資源投入能力)、生産管理・品質管理にたいする消極性(競争力蓄積能力)が議論されている。そして、全体として天津自工の成長戦略を「市場機会の探求とそれへの適合」として特徴づけている。 第一自動車の場合は、1950年代に国家プロジェクトとして成立して以来、豊富な国家資金を得やすい立場にあったが、内製率の高さとサプライヤー網の未発達、国家計画への依存・追従といったマイナス面もあった(初期の既存資源)。80年代には東風自動車との中型トラック分野での競争に集中したため、乗用車事業への進出は遅れた(認識能力)。80年代半ばにはようやく乗用車プロジェクトの国家承認を得たが、商用車企業の買収に資金を使い、このため乗用車工場への集中投資を行わなかった(資源投入能力)。しかし、生産管理・品質管理・製品開発といった分野では競合他社よりも力があり、上海・天津に対する劣勢を挽回しつつある(競争力蓄積能力)。 第7章では、「三大三小」企業のうち、90年代半ばの時点で成長性で後れをとった停滞三社(北京自工、広州自工、東風自動車)を分析している。ここでは、歴史的背景や性格が比較的類似している上海自工と北京自工、天津自工と広州自工、そして第一自動車と東風自動車を対比する形で、停滞の原因を分析している。具体的には、北京自工における組織の分散と軍隊優先の製品(ジープ)の選択、広州自工における組織分散と産業基盤の弱さ、そして機会主義的な旧式の製品の選択、東風自動車における山間部立地の不利と天安門事件以降の状況変化への戦略適応の遅れ等が、停滞の原因として指摘されている。 以上、乗用車企業6社のケース分析を踏まえて、第8章では、戦略形成論の分析枠組に従って、(1)成長3社と停滞3社を分かつ要因の分析と、(2)成長3社の間の戦略構築経路・成長経路の違いに関する分析を行い、本論の問題設定に対する解答を試みている。まず、90年代半ば(乗用車ニーズ成長期)において成長3社と停滞3社を分かつ最も決定的な違いは、この時期の戦略構築の焦点である「資源投入能力」の成否であったことを確認している。また、前期(技術導入・市場開放期)における「認識能力」の不備、さらには初期(計画経済統制期)における既存資源の強み・弱みの持つ累積的な効果も、この時点での成長性の違いに影響を与えているとする。 またこの章では、成長3社の間においても、克服すべき既存資源の強みと欠陥の違い、環境認識の重点の置き方の違い、乗用車生産能力拡張のパターンの違いなどが累積的に効いた結果、相当に異なる戦略構築経路・成長経路がみられたことを確認している。例えば第一自動車は国家計画追従という弱点の克服、上海と天津は技術力・品質管理能力などの面での弱点克服が課題であった。認識能力に関しては、上海自工は自社資源の把握、天津自工は市場機会の把握において相対的に優れていた傾向があり、第一自動車はこれらの点で弱点をかかえていた。生産能力拡大のやり方を見ても、上海自工は外資と政府の支援による乗用車事業への集中投資、天津自工は商用車事業の利潤留保を乗用車工場に集中投下する「以老養新」、第一自動車は中央政府への積極的な働きかけによる大型乗用車プロジェクトの獲得に重点を置いており、そのパターンはかなり異なっていたのである。 第9章では、以上の分析を総括した上で、中国企業論一般に対するインプリケーションを幾つか指摘している。第一に、経済体制変化の時期における国営大企業の適応の遅れという問題が、乗用車産業の場合にも見られるとする。地方の中小型企業であった上海自工や天津自工が、もともと国営大企業である第一自動車や東風自動車に対して乗用車事業で先行した事実に、この点が如実に現れている。第二に、市場における製品構成が大きく転換する時期における、企業のパフォーマンスの格差、という一般的な問題に対する含意が示される。もともと乗用車技術を蓄積していた上海自工は、乗用車技術の更なる吸収において有利である、という、技術吸収能力の累積性が指摘される。また、既存製品体系(例えば商用車)において優位なポジションにある企業(例えば第一自動車や東風自動車)は新製品技術の導入に消極的になる傾向があることも指摘される。第三に、市場のさらなる高度化に従って、これまでは隠れていた質的な競争力の差が市場で重視されるようになり、「競争力蓄積能力」の差が市場パフォーマンスの差として顕在化してくる傾向が指摘されている。また、技術導入と国産化という問題に関する他産業へのインプリケーション、および経営戦略論に対する貢献(経営資源・組織能力の累積性と組織慣性の役割に関する知見)が主張される。 さらに、今後の課題として、外資企業の動きなどに関する研究の深化、経営史的な分析の充実、企業形態論からの分析(例えば中国の「大型国営企業」対「中小型地方企業」の比較分析)、軍事産業の役割に関する分析などを展望し、本論を終えている。 論文の概要は以上のとおりだが、これに対する審査委員会の評価は以下の通りである。 第一に、「なぜ中国の乗用車メーカーの行動パターンと成果が企業によって異なるのか」という問題設定は、経営戦略論としては非常に一般的なものであるが、中国企業論・産業論の研究の流れの中では一定の意義が認められる。従来、マクロレベルの制度分析や産多レベルの経済分析が多かった中国経済・産業・企業論に、明確に個別企業レベルの戦略分析の視点を持ち込んだことが、この論文の貢献の一つと言えよう。産業レベルから企業レベルの分析へ、国営大企業(第一自動車・東風自動車など)中心の分析から地方の後発企業(上海自工・天津自工など)を含めた比較分析へ、外資側の視点から中国企業側の視点へ、という、わが国における中国産業・企業研究の流れの中での、本論文の位置付けは明快である。 第二に、上記の問題を考察する上で、比較的オーソドックスな戦略論を分析枠組として用いる試みは、概して成功していると評価できる。分析枠組自体は、理論的にはあまり新味はないが、これが乗用車企業6社の実証分析に一貫して適用されており、その点で破綻はない。ダイナミックな戦略形成論という選択も、歴史的事実の分析を中心とするこの論文の性格からして適切といえよう。「環境の焦点要因転換と戦略構築能力の焦点転換の適合」という基本ロジックは、やや図式的だが、乗用車6社の分析をこの枠組みで一貫的に説明する試みは、学界でも従来みられなかったタイプの研究と評価できる。一方で、中国自動車産業発展の特殊性も十分に把握しており、これにより、基本的には「アメリカ流経営学の中国の実態へのナイーブな応用」という問題を回避できている。 第三に、実証分析として見た場合、少なくとも日本語の文献としては新たな資料の発掘もあり、その点で学界への貢献が少なからず認められる。中国自動車産業・企業という、比較的資料の整備の遅れた分野において、個別企業の戦略行動をここまで詳細・具体的に描いた著作はほとんどなかったといえよう。類似したテーマのものに、李春利による東京大学経済学研究科博士課程論文論文があるが、この場合は国営大企業同士の商用車競争を描いており、対象とされる時期の違いもあって、制度論・産業論的な色彩がまだ強い。その点でも、戦略論的な枠組をストレートに適用してみせた陳晋論文の独自性・体系性は十分に評価できると思われる。 個別企業のケース分析としては、天津自工の資料が相対的にオリジナリティが高いと認められる。例えば、同社における、生産量重視・品質軽視の風土の背景説明は、実例が豊富で分かりやすい。拙速でやや安易な国産化戦略が品質問題を起こす過程の説明は明晰だ。上海自工や第一自動車の資料は、オリジナリティはやや落ちるが、分析枠組に沿って手堅く収集しており、その分析も概ね妥当と考えられる。総じて、実証面での、本論文の学術的貢献は十分に認められる。 反面、本論文は以下の点で改善が求められる。第一に、結論に至るケース分析の細部で、実証的な詰めの甘いところが散見される。資料収集が難しい領域であることを勘案してもなお、実証データの充実が求められる。例えば天津自工の市場調査が他社よりも優れていた、という結論をサポートする、企業内の活動や意思決定の流れに踏み込んだ資料収集が不足している。傍証の積み重ねによる推論というレベルから大きく出ていない。資料の正確な整理と丹念な読み込み、という点でも、やや雑なところが散見され、改善が必要と思われる。 第二に、ダイナミックな分析枠組の適用を試みている割には、実証分析において、項目ごとの既述の寄せ集め的な印象を与えるところが少なからずある。分析枠組みとの整合性を確保するために、各項目に該当する資料を集めて手堅く分析しているのはよいとしても、それらの項目が、ややもすると、ばらばらで静態的な既述にとどまっており、その間のダイナミックな相互作用・因果過程・意思決定連鎖などに関する動態的な分析が物足りない。また、全体に、記述がやや冗長で繰り返しが多い傾向がある。 第三に、中国側の企業の分析が比較的に充実しているのに対して、外資系企業の分析は深みが足りない。一次資料に基づく迫力あるデータが不足している。特に中国企業と外資企業の間の交渉過程を分析する場合、双方の取材が必要であるが、外資側に対する実態調査が明らかに不足している。 第四に、市場経済化の過程における、各地域の政府・企業間関係の相違など、企業をとりまく環境条件のダイナミックな変化に関する分析がやや足りない。中国自動車企業は、当然ながら先進資本主義諸国の大企業ほどにはフリーハンドの意思決定は出来ない。地方政府・中央政府がもたらす制約が企業によって異なる点について、もっと突っ込んだきめ細かい分析が欲しい。また、他産業との比較の視点、例えば中国の自動車産業が、保護されたセクターである、という論点が必ずしも明確でない。中国産業論・企業論のより広い視野からの分析・評価が望まれる。 以上のような問題点を残すとはいえ、本論文は、それらを勘案した上でもなお、論文提出者の独立した研究者としての資格と能力を確認するに十分な内容を有していると考えられる。特に、実証面での、学界に対する貢献は、十分に認められる。こうした理由により、審査委員会は全員一致で、本論文を博士(経済学)の学位請求論文としての合格水準に達し、同学位授与に値するものと判定した。 |