学位論文要旨



No 114629
著者(漢字) 坂本,謙司
著者(英字)
著者(カナ) サカモト,ケンジ
標題(和) Ischemic preconditioningによる低分子量熱ショックタンパク質HSP27の細胞内分布変化とp38MAP kinaseの役割
標題(洋)
報告番号 114629
報告番号 甲14629
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第890号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長尾,拓
 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 助教授 仁科,博史
内容要旨 1.序論

 1986年にMurryらによって心臓に内因性の虚血心筋保護機構が存在することが報告され,Ischemic Preconditioning(PC)と命名された.PCとはあらかじめ短時間の虚血・再灌流にさらされた心筋は後に引き続く長時間の虚血・再灌流により惹起される傷害に対して耐性を獲得するという現象である.現在,PCを新たな創薬あるいは治療法に結びつけようとする研究が世界中で広く行われているが,未だにその機序は完全には解明されていない.これまでの研究によりPCにはアデノシンA1受容体,および1アドレナリン受容体などのGqとカップルした受容体の刺激を介したProtein Kinase C(PKC)の活性化が重要であることが明らかとなっている.しかし,PCの細胞内情報伝達系の全貌は未だ明らかではない.

 低分子量熱ショックタンパク質の1つであるHSP27は非常にユニークな性質を持っている.HSP27は恒常的に心筋を含む筋組織に多く発現している上に,種々のストレスやサイトカインあるいはprotein kinase Cを活性化するホルボールエステルによってリン酸化される.このリン酸化はp38Mitogen-activated protein kinase(MAPK)の阻害薬であるSB203580(SB)により阻害される.近年MAPK activated protein kinase(MAPKAPK)-2あるいは3がp38MAPKの下流においてHSP27をリン酸化していることが明らかとなった.さらに,HSP27のリン酸化を引き起こすストレスはHSP27の細胞内分布を素早く変化させることが知られている.たとえば,HeLaやヒトグリオーマ細胞に熱ショックを与えると,HSP27は細胞質から核に移行する.

 PCの虚血心筋保護効果にPKCの活性化が関与しているとの報告があるため,短時間の虚血・再灌流がPKCを介してp38MAPKを活性化とHSP27のリン酸化およびその細胞内分布変化を惹起し,引き続く長時間の虚血・再灌流による細胞障害に対する耐性を発現させる可能性が考えられる.本研究はp38MAP kinaseの阻害薬SBを薬理学的ツールとして用い,ラット灌流心臓とラット心筋由来のH9c2細胞におけるPCの心筋保護作用に対するp38MAPKの関与を検討した.また,PCによるHSP27の細胞内分布の変化を生化学的,免疫組織化学的あるいは免疫細胞化学的に検討した.

2.ラット灌流心臓におけるPCに対するp38MAPKの関与とPCによるHSP27の細胞内分布変化

 PCにp38MAPKの活性化が関与しているかどうかを調べるために,ラット灌流心臓を用いてp38MAPK阻害薬であるSBのPCに及ぼす影響を調べた.また,生化学的および免疫組織化学的手法により,PCによるHSP27の細胞内分布の変化,およびそれに対するSBの影響を検討した.

 [方法]SD系ラットを麻酔した後,心臓を摘出し,ランゲンドルフ法で灌流した.PCは5分間の虚血および再灌流各1回で行い,40分間の虚血,50分間の再灌流終了時点の左心室収縮力で保護効果を判定した.SB10M,PKC阻害薬のbisindoly Imaleimide I(BIM)3MはPC10分前から40分虚血開始まで灌流した.HSP27の細胞内分布を調べるため,別にPC直後の心臓を1000xg沈渣,100000xg上清,100000xg沈渣に細胞分画し,各分画中のHSP27量をウエスタンブロットにより定量した.また,凍結切片を用いた免疫組織化学を行い,HSP27の細胞内分布の変化を調べた.

 [結果と考察]再灌流終了時点での左心室収縮力はControl群に比べ,PC群で有意に回復したが,このPC効果はSBあるいはBIMにより消失した(図1).また,PCにより100000xg上清中のHSP27が減少し,1000xg沈渣中のHSP27が増加したが,この変化もSBにより遮断された(図2).免疫組織化学によって,HSP27がPCにより細胞質からサルコメアに移行し,この移行はSBにより阻害されることが確認された(図3).1000xg沈渣中には主に核と心筋線維が回収されることから考えると細胞分画の結果と免疫組織化学の結果は一致する.ラット摘出心臓においてPCの虚血心筋保護作用にp38MAPKの活性化とHSP27のサルコメアへの移行が関与している可能性が示された.

図1:再灌流終了時点での左心室収縮力(LVDP)(*P<0.05)図2:各画分におけるHSP27の存在比率図3:PC直後におけるHSP27抗体によるラット心筋組織染色像
3.H9c2 myoblastを用いたPCモデルの確立1

 これまで,PCに関する研究は麻酔動物を用いたin vivoの,あるいは灌流心臓を用いたin situの実験系によって研究が進められてきた.しかし,これらの実験系は細かい細胞内情報伝達系の解析には不向きである.近年,新生仔あるいは成熟ラットの単離心筋細胞を用いた実験も報告されているが,本研究では細胞のアイソトープラベルや遺伝子導入などの手法などで細胞内情報伝達系の解析が容易にできるPCモデルとしてラットmyoblast由来のcell lineであるH9c2を用いた実験系の構築を試みた.H9c2細胞を用いた実験系が良いPCのモデルとなるかを検討するため,PCによって低酸素・再酸素化傷害に対する耐性が誘導されるかどうか,およびPCによるHSP27の細胞内分布がどのように変化するかを調べた.

 [方法]H9c2は常法に従い培養した.H9c2よりrat HSP27をクローニングし,GST-HSP27を作製した.HSP27ポリクローナル抗体はこのGST-HSP27をウサギに免疫することにより得た.細胞死は24時間の低酸素化とそれに引き続く5時間の再酸素化により惹起した.PC群では24時間の低酸素化の前に5分間の低酸素化および再酸素化刺激を4回繰り返して行った.p38阻害薬のSB203580(SB)10MはPC10分前から処置した.細胞生存数はMTT法により測定した.別にPCによるHSP27の細胞内分布の変化を調べるため,PC刺激直後の細胞を回収して細胞質,核,膜,細胞骨格画分に分画し,各画分中におけるHSP27の存在をウエスタンブロットで調べた.無機リンラベルしたH9c2にPC刺激を与え,その後細胞を可溶化してHSP27抗体で免疫沈降することによりHSP27のリン酸化を調べた.また,コラーゲンコートしたカバーグラスに培養した細胞にPC刺激を行い,免疫細胞化学によりHSP27の細胞内分布の変化を調べた.

 [結果と考察]24時間の低酸素化・5時間の再酸素化後により誘発された細胞死はPCにより有意に抑制され,このPCの細胞死抑制効果はSBにより有意に阻害された(図4).また,PCにより細胞骨格画分に含まれるHSP27が増加した(図5).このとき,PCによってHSP27のリン酸化が有意に上昇し,このリン酸化もSBにより抑制された(図6).また,PCを行った細胞のHSP27の細胞内分布がFITC-ファロイジンで可視化した細胞骨格の分布と一致することが免疫細胞化学により確認された(図7).このHSP27の細胞骨格への移行もSBにより消失した.この結果は,PCの細胞保護効果にp38の活性化とそれに引き続くHSP27の細胞骨格への移行が関与している可能性を示しており,H9c2細胞がHeLa細胞などよりも上で示したラット灌流心臓に近い性質を持つことを示唆している.よって,本モデルは今後PCの細胞内情報伝達系をさらに詳しく解析するのに有用であると考えられる.

図4:24時間の低酸素化・5時間の再酸素化後の細胞生存数(*P<0.05)図5:PCによるHSP27の細胞骨格分画への再分布.図6:PC刺激によるHSP27のリン酸化A:3例の平均(*P<0.05)B:オートラジオグラフィーの代表例図7:HSP27抗体(B,D,F)とFITC-ファロイジン(A,C,E)による染色像
4.総括

 本研究はラット灌流心臓およびラット心筋由来のH9c2細胞を用いて,PCに対する低分子量熱ショックタンパク質の1つであるHSP27の細胞内分布の変化とp38MAPKの役割について検討し,以下のことを初めて明らかにした.

 1)PCの細胞死あるいは収縮機能不全抑制効果はSBの前投与で消失した.

 2)PCはHSP27の収縮タンパク質(サルコメア)あるいは細胞骨格への移行を惹起し,このHSP27の細胞内分布の変化とリン酸化はいずれもSB203580の前投与で消失した.

 すなわち,1)PCの細胞保護効果の発現にはp38MAPKの活性化が必要であり,2)PCの細胞死あるいは収縮機能不全抑制効果とHSP27の収縮タンパク質(サルコメア)あるいは細胞骨格への移行は相関していることから,HSP27がアクチンを含む収縮タンパク質あるいはアクチン細胞骨格へ移行することが,収縮タンパク質あるいは細胞骨格を虚血・再灌流による傷害から守り,細胞の保護に寄与する可能性が考えられる.

 また,本研究で確立したH9c2細胞を用いたPCモデルは,ラット灌流心臓に近い性質を持ち、かつ細胞のアイソトープラベルや分子生物学的手法を容易に適用できるため,PCの細胞内情報伝達系をさらに詳しく解析するのに有用であると考えられる.

 本研究で得られた知見はこれまでProtein kinase CレベルでとどまっていたPCの細胞内情報伝達系に新たな展開をもたらすという点とこれまで主にエネルギー代謝改善の面から論じられていたPCの機序に,収縮タンパク質の保護という新しい一面があることを示唆する点で注目すべきものであり,新しい虚血性心疾患の治療法・治療薬の開発につながるものと期待される.

【印刷公表された論文】

 1.Sakamoto K,Urushidani T,Nagao T.Translocation of HSP27 to cytoskeleton by repetitive hypoxia-reoxy genation in the rat my oblast cell line,H9c2.Biochem.Biophys.Res.Commun.251,576-579,1998.

審査要旨

 Ischemic preconditioning(PC)はあらかじめ短時間の虚血・再灌流にさらされた心筋が後に引き続く長時間の虚血・再灌流による障害に対し耐性を獲得する現象である.PCの虚血心筋保護作用にはProtein Kinase C(PKC)の活性化が重要であることが明らかとなっているが,PCの細胞内情報伝達系の全貌は未だ明らかではない.

 近年,ストレスにより活性化するMAP kinaseの1つとしてp38MAP kinase(p38)が同定され、心筋虚血・再灌流によっても活性化することが示されている.p38の下流には非常にユニークな性質を持つ低分子量熱ショックタンパク質HSP27が存在する.HSP27は種々のストレスやサイトカインあるいはprotein kinase Cを活性化するホルボールエステルによってリン酸化される.このリン酸化はp38の阻害薬であるSB203580(SB)により阻害される.さらに,HSP27のリン酸化を引き起こすストレスをHeLaやヒトグリオーマ細胞に負荷するとHSP27は細胞質から核に移行することが知られている.

 本研究はp38の阻害薬SBを薬理学的ツールとして用い,ラット灌流心臓とラット心筋由来のH9c2細胞を用いてPCの心筋保護作用に対するp38の関与と,PCによるHSP27の細胞内分布の変化を検討したものである.以下に本研究によって得られた主な知見をまとめる.

1.ラット灌流心臓におけるPCに対するp38の関与とPCによるHSP27の細胞内分布変化

 PCにp38の活性化が関与しているかどうかを調べるために,ラット灌流心臓を用いてp38阻害薬であるSBのPCに及ぼす影響を調べた.また,生化学的および免疫組織化学的手法により,PCによるHSP27の細胞内分布の変化,およびそれに対するSBの影響を検討した.再灌流終了時点での左心室収縮力はControl群に比べ,PC群で有意に回復したが,このPC効果はSB10Mにより消失した.次にPCによるHSP27の細胞内分布変化を調べるたところ,PCにより可溶性画分中のHSP27が減少し,核・心筋線維画分中のHSP27が増加した.この変化もやはりSB10Mにより遮断された.また,免疫組織化学によって,HSP27がPCにより細胞質からサルコメアに移行し,この移行はSB10Mにより阻害されることが確認された.以上の結果はラット摘出心臓においてPCの虚血心筋保護作用にp38の活性化とHSP27のサルコメアへの移行が関与している可能性を初めて示したものである.

2.H9c2 myoblastを用いたPCモデルの確立

 これまで,PCに関する研究は麻酔動物あるいは灌流心臓を用いた実験系によって研究が進められてきた.しかし,これらの実験系は詳細な細胞内情報伝達系の解析には不向きである.本研究では細胞のアイソトープラベルや遺伝子導入などの手法などで細胞内情報伝達系の解析が容易にできるPCモデルとしてラットmyoblast由来のcell lineであるH9c2を用いた実験系の構築を試みた.H9c2細胞を用いた実験系が良いPCのモデルとなるかを検討するため,PCによって低酸素・再酸素化傷害に対する耐性が誘導されるかどうか,およびPCによるHSP27の細胞内分布がどのように変化するかを調べた.24時間の低酸素化・5時間の再酸素化後により誘発された細胞死はPCにより有意に抑制され,このPCの細胞死抑制効果はSB10Mにより有意に阻害された.また,PCにより細胞骨格画分に含まれるHSP27が増加した.このとき,PCによってHSP27のリン酸化が有意に上昇し,このリン酸化もSB10Mにより抑制された.また,PCを行った細胞のHSP27の細胞内分布がFITC-ファロイジンで可視化した細胞骨格の分布と一致することが免疫細胞化学により確認された.このHSP27の細胞骨格への移行もSB10Mにより消失した.以上の結果は,H9c2細胞においてもPCの細胞保護効果にp38の活性化とそれに引き続くHSP27の細胞骨格への移行が関与している可能性を示しており,H9c2細胞がHaLa細胞などよりもラット灌流心臓に近い性質を持つことを示唆している.よって,本モデルは今後PCの細胞内情報伝達系をさらに詳しく解析するのに有用であると考えられる.

 本研究は,以下に示す2つのことを初めて明らかにした.

 1)PCの細胞保護効果の発現にはp38MAPKの活性化が必要であること.

 2)PCの細胞死あるいは収縮機能不全抑制効果とHSP27のサルコメアあるいは細胞骨格への移行が相関していることから,HSP27のサルコメアあるいは細胞骨格への移行が,サルコメアあるいは細胞骨格を虚血・再灌流による傷害から守り,細胞の保護に寄与している可能性があること.

 また,本研究で確立したH9c2細胞を用いたPCモデルは,ラット灌流心臓に近い性質を持ち、かつ細胞のアイソトープラベルや分子生物学的手法を容易に適用できるため,PCの細胞内情報伝達系をさらに詳細に解析するのに有用であると考えられる.

 本研究はPCの細胞内情報伝達系に新たな展開をもたらすという点と,これまで主にエネルギー代謝改善の面から論じられていたPCの機序にサルコメアや細胞骨格の保護という新しい一面があることを示唆するという点で注目すべきものであり,新しい虚血性心疾患の治療法・治療薬の開発に多大な貢献をするものと考えられる.故に,本研究を博士(薬学)の学位を授与するに値するものと認めた.

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