学位論文要旨



No 113972
著者(漢字) 伊東,乾
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,ケン
標題(和) 動力学的音楽基礎論
標題(洋)
報告番号 113972
報告番号 甲13972
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第190号
研究科 総合文化研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉橋,陽一
 東京大学 教授 佐々木,正人
 東京大学 教授 岩佐,鉄男
 東京大学 教授 小林,康夫
 東京大学 助教授 長木,誠司
内容要旨

 同じ文章を黙読するのと、語り聞かす声に耳を傾けるので、全く別の経験が得られる。

 声はより易々と人を動かす。さらに言葉ならざる音の持つ強い力が時として多くの人々の運命までも左右する。にもかかわらずその力の由来を私たちは即座に言語を用いてつまびらかには出来ない。今世紀前半のファシズムの高揚にはラジオなど音声メディアが大きな役割を果たした。アーレントARENDTは戦後ごく普通の人々が日常的な感覚で集団で狂気に走った事実を告発した。またアドルノADORNOはアウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮だと戦後芸術に厳しい倫理的審級を糺した。ドイツのダルムシュタットを中心に、アドルノらは記憶の残沙に拠らない戦後音楽の倫理的な「零時」からの再出発をシェーンベルクSCHOENBERG=メシアンMESSIAEN由来の「音列主義」として指導した。折しもDNAの二重らせん構造が発見され、世界のあらゆる要素は過去の記憶と無縁な「要素の配列」で記述できるかに見え、音列主義は絶大な説得力を獲得する。その中で的確な数学的モデル空間を用い徹底した総音列主義を確立推進したのがブーレーズBOULEZだった。やがて音列音楽は過度に複雑化して多声楽的には聴き分け不能に陥る。その状態に最初で最大の衝撃を与えたのがやはり数学的な相空間モデルを用い響きの総体を統計的な一つのものとして捉えるクセナキスXENAKISの「確率音楽」だった。さらに40年代末期からブーレーズらとも親しく通じ戦後芸術の問題意識を共有しながら根本的に異なる独自な音との関係を提起したケージCAGEの「偶然性の音楽」が、以後最も広範な影響を及ぼし続ける。等しく恣意性の排除と関わりつつ全く異なった展開を見せるこれらの音楽。私たちは今日、一面で、ある距離を置きつつ、現代の古典としてこれらを平行して演奏し、他方で新たな音楽のポイエーシスを占う強力な灯標としてもこれらを参照するのである。そのようにして彼らの音楽に関わりつつ、それらの相互関連から垣間見える、より本質的な問いの存在に、やがて漠然とながら気づくようになった。実践的な営為を通じて、その問いが求める解答が、意識や自我を静的staticに捉えられるのでなく、無心ながら、より動的dynamicな行為の水準で捉えられるものだと遂には理解するに至った。やがてクリックCRICKによる、意識は脳内の有機的な物質過程だけで説明できるとする唯物還元的な研究やプリゴジンPRIGOGINEによる、自身の内から生命の創発をも可能とする非線形力学系の研究を知り、我々が求めるものが、用語の正確な意味で「動力学的dynamical」な基礎科学と関わることが判明した。ここで動力学的なものとは、システムの不安定性や不均一性を動的生成の積極的要因と見、そこから高次の創発を導こうとする系一般を指す。自らの身体や意識をも含め物質的に基礎づけられた動力学的理論によって音、そして音楽と私たちの存在と意識の関わりはいかに説明されるか。アドルノやアーレントの問題は、あらゆる日常に峻厳な倫理をもち、つねに終わらない本質的な問いを発し続ける。

 音と私たちの生とはどのように関わるか、私たちは、いかに暴力を回避し、そこで何に気づくべきなのか。この問いを巡り、以下の様に考察を進めた。

 第0章では、音楽を巡る問題が本質的に非線形な動力学的側面を持つことを、他ならぬ西欧近代音楽の原点というべき、ノートルダム楽派によるポリフォニーの創始を例に詳述する。0.0では、身体と空間の知覚科学の見地から、オルガヌムの誕生が動力学的創発の性質を持つこを示す。ここで言う創発emergenceとは、前提となるあからさまな与件が特定されない形で、システム全体に立ち現れる非線形特質を指す。0.1では西洋古典古代における音楽思考がむしろ動力学的な自然学の性格をもつことを確認し、その基礎から、われわれが準拠しがちである西欧近代的な音楽思考の静的線形性に注意し、0.2でその限界を破るものとしての動力学的問題設定の有効性を確認する。

 第1章では聴覚が本質的に持つ非線形特質を詳述する。ここでいう非線形性とは、入出力間の非線形応答、すなわち定数係数をもつ比例関係が成立しないことを指す。1.0では多細胞プランクトンからヒトに至る聴器の進化過程を追い、1.1では胎児から喃語獲得に至るヒトの発生における聴覚の発達を、音声言語と関係してあとづけてゆく。1.2に至ってヒト成人における「聴こえ」の非線形な特質が確認される。「聴こえ」の非線形性は知覚の側からは「錯覚」として捉えられるので、その音楽的な適用例にも末尾で触れる。

 第2章では、全章でも触れた「音声」の際だった非線形性を音声合成の見地から確認することで、現状のディジタル・テクノロジーに立脚する新たなパラダイムが静的モデルの未解決問題に有効に作用することを、20世紀後半の音楽思考に即して具体的に立証する。2.0では基礎となるシェーンベルクの問題設定、2.1ではアナログ・シンセサイザーの技術水準と対応するブーレーズの音列音楽とボルツマンLudwig BOLTZMANNのエルゴード的な統計力学に対応するクセナキスの確率音楽が、おのおの線形的、および静的な解答例として示され、それらの問題を解決する上で、知覚と身体の動力学的問題設定が基本的であることを2.2で確認する。

 第3章では、実際に音楽の身体営為を演奏の具体的側面から確認する。ここでは意識の捉え方が重要であり、3.0においてデカルト的に切断された二元論的な自我cogitoではなく、知覚と行為の回帰回路の循環に上って創発するものとして自己意識が捉えられる。その見地から3.1では、理念上は極めてデカルトRene DESCARTES的な性格をもつ19世紀西欧のロマン派音楽すらもが、身体技法の水準では動力学的本質をもつことをソルフェージュ、ピアノ奏法、および指揮法の3側面から詳細に確認し、併せて3.2で「回帰回路としての自己意識」の提唱者シェリントンSir Charles SHERRINGTONの倫理的考察にまで言及することで、当初の戦後芸術の基本的課題と対照する。

 第4章ではシェリントンの議論を基礎に精神の外部性、ヒト群体における唯一性にまで言及するシュレーディンガーErwin SCHROEDINGERの意識論に触れるが、この指摘自体への判断はひとまず保留される。4.1ではそのような倫理と行為の科学に即して、自己受容器の外部性を確認し、併せて理性的判断が情動の発動に遅れる生理特性を確認する。4.2ではその情動の外部性に触れ、そこから生態音響学の視座への転換が試みられる。このような指向とジョン・ケージの「偶然性の音楽」との並行性、それらの行為の動力学的妥当性を4.3で確認する。

 第5章では5.0で行為と言語的分節との関係をヴィトゲンシュタインWITTGENSTEINを援用し確認したのち、5.1で1990年代の解明水準で脳内過程を含む音の行為と環境認知の回帰的動力学回路の実像を把握、そのような非線形的創発を多体系の唯物的統計数理理論として定式化するプリゴジン理論の要点を5.2で詳説した。その視点から伝統的な西欧近代形而上学の静的誤謬を、クセナキスの事例で明らかにする。高橋に従いハイデガーMartin HEIDEGGERのパルメニデス読解を骨子とし存在と行為の動的本質を確認しケージ以後の聴取の行為性の見地から動力学的音楽の生成と気づきの行為としての倫理を明確化する。終章では、4.0以降保留している群体としてのヒトの意識の問題と動力学的な具体的議論との対応づけを確認し、そのような具体的実践として、ケージの没後その遺作の上演でケージの持ち分を筆者が担当したマース・カニングハム舞踊団Merce CUNNINGHAM Dance Company公演「オーシャンOCEAN」を報告し考察を付す。

 これらの議論と考察から以下の五つの結論を導く。

 1「音」と私たちの「生」とが、互いに切断された要素として関わりあう静的で二元論的な図式は、問題を有効に記述せず、それを解決することができない。

 2意識現象は本質的に、行為を通じて知覚の回帰系が発動することで創発する。この意味で身体と世界像とは不可分で、明確な境界線を引くことができない動力学的な系Dynamical Systemを構成し、それを更新し続けている。

 3音が介在する行為の知覚系では生のあらゆる局面で動力学的な音楽的生成が可能である。ここで言う音楽的生成とは、限りある実空間=実時間=身体の不可逆性「一期一会」を生きること自体に関わる美に対して開かれた、あらゆる動力学的生成Dynamical poiesisの総体を指す。

 4言語及び記号的分節に適応した認知システムは一般に、認知=行為に先だって、あるいはそのさなかに、系、とりわけ情動回路などの脳幹及び大脳辺縁系に繰り込まれる非言語的、非記号的な入力を意識化することが出来ない。

 5前項の様な知覚と意識現象の不可避な限界を前提に、身体行為と環境の総体が生成する在りようそのもの、とりわけ言語的記号的に分節されにくい音の現象に、回帰的意識の気づきを創発させる行為自体が、音楽の外にあって倫理として自らを示す。

 参考に具体的な実践例を収録したヴィデオ・テープを添付した。

審査要旨

 伊東乾氏の論文「動力学的音楽基礎論」は、現代の認知科学や生態心理学の知見にもとづきながら、「動力学的」な視点、すなわちシステムの不安定性や不均一性を動的生成の積極的要因と見る立場から、人間と音-音楽との関わりを理論的に解明し、あわせて音楽行為の倫理を論じようとする野心的な力作である。

 本論文の最大の特色は、従来の音楽学の枠組みのなかではあまり論じられることのなかった「音楽基礎論」に現代科学の視点から取り組んだことである。ここでいう「音楽基礎論」とは、数学に対する数学基礎論と同じく、音楽そのものを扱うのではなく、音楽を成立させている基盤、根拠を明らかにしようとするものである。従来の研究では音楽の基礎は、音楽の発生もしくは起源の問題として歴史的にたどられるか、あるいは心理学的・美学的見地から音楽に内在するなんらかの価値として探られることが多かった。それに対して伊東氏は、人間がいかにして音を聴き、意識するかという点に着目することによって、この音楽の「基礎」を本質的に非線形な動力学的特性をもつものとしてとらえ、動的な行為の水準で音楽における意識や身体の問題を分析していく。以下、本論文の構成に即して、その内容を検討する。

 本論文は、序章と終章を含めて全8章から構成されている。まず序章で論文の問題設定と目的、方法論が説明されたのち、第0章では、動力学的な音楽の生成の具体的な事例として、12世紀パリにおけるノートルダム大聖堂の改築と多声音楽の誕生の関連が論じられる。従来の教会堂をはるかに凌駕する大規模な建造物の出現が、その工事中も聖堂内部で続けられていたミサの音楽に影響を及ぼし、完成した複雑な共鳴空間装置に見合った響きを備えた、いわゆるノートルダム楽派のポリフォニー音楽に結実していったという仮説が、説得力豊かに展開され、その背景となる西洋古典古代における音楽思考の動的な性格と、その後の音楽を支配した近代的な思考の静的・線形的な性格が対比される。

 第1章では、ヒトの聴覚の非線形性、すなわち入出力間に定数係数をもつ比例関係が成立しないという特質が、プランクトンからヒトにいたる聴器の進化過程、胎児から成人にいたる聴覚と音声認識の発達を追いながら詳述される。「聴こえ」の問題は、たんに聴覚末梢だけではなく、言語生成など多様な身体および行為の要素との関わりにおいて創発することが、ここで確認される。

 第2章では、逆に音声合成の技術的な側面から音声の非線形性が確認され、従来の静的モデルの限界を打ち破る、現代のデジタル・テクノロジーに立脚した新たなパラダイムの有効性が立証される。ここでの議論は、シェーンベルク、ブーレーズ、クセナキスという20世紀前・後半を代表する作曲家の音楽思考に即して具体的に進められ、アナログ・シンセサイザーの技術水準に対応するブーレーズの音列音楽と、ボルツマンのエルゴード的な統計力学に対応するクセナキスの確率音楽が批判的に検討される。

 第3章では、音楽における身体営為が演奏の実際的側面から分析される。まず「意識」の問題が取り上げられ、知覚と行為の回帰回路の循環によって創発するものとして自己意識がとらえられる。次いでその観点から、ソルフェージュ、ピアノ奏法、指揮法の身体技法が詳細に分析され、その動力学的本質が明らかにされる。この分析においては、指揮者としても音楽活動に携わる伊東氏の特質が十分に発揮され、創意に満ち、示唆に富んだ議論が展開されている。

 第4章では、「回帰回路としての自己意識」の提唱者シェリントンと、量子力学の父として知られるシュレーディンガーの意識論にもとづき、生態認知科学におけるギプソンの「アフォーダンス」理論なども援用しながら、音と音楽の動力学的基礎の諸側面が検討される。まず自己受容器の外部性、情動の外部性が指摘され、そこから生態音響学の視座への転換が、ジョン・ケージの具体的な音楽実践の分析とともに行われ、ケージの「偶然性の音楽」がチャンス・オペレーションズの環境解釈、動的なポイエーシスの視点から見直される。「音楽聴」とは異なる「日常聴」の経験、「音そのものを聴く経験というよりは、むしろ世界で引き起こされる出来事を聞き取る経験」から、ケージの仕事をとらえかえそうとする伊東氏の視座は、20世紀音楽に大きな転換をもたらしたこの実験的作曲家に新たな光を当てるものとして、大いに示唆に富み、注目に値するものである。

 第5章では、これまでの議論を踏まえ、さらにプリゴジンらによる数理物理科学の確率論的拡張などを導入することによって、閉じた系ではなく開かれた動的システムとしての音楽行為が論じられる。クセナキスに関する高橋悠治の考察を参照しつつ、ハイデッガーのパルメニデス読解にまで話題を広げて展開される議論は、「音楽基礎論」の枠を超えて、むしろ「動力学的存在論」と呼ぶべきものに達している感があるが、「音楽」生成の基礎を人間の存在と行為の本質にまで踏み込んで見極めようとする態度こそ、「動力学的」な問題設定の本領というべきかもしれない。

 終章では、本論文の全体が物質科学的な基礎から音楽の行為の実際までひとつの流れとして総括され、この理論を実践的に展開した実例として、ジョン・ケージとマース・カニングハムの『オーシャン』の上演が分析される。この上演には伊東氏自身が重要な立場で参加しており、「音楽基礎論」の理論的有効性が実践的に検証されている。

 最初にも述べたように、本論文の特色は、これまで人文科学的な視点で論じられることの多かった「音楽」に関する基本的な問題を、最先端の理論科学の成果をもふんだんに取り入れながら、自然科学的な視点をも交えて複合的に解明しようとした点である。これには伊東氏自身が理学系研究科物理学専攻で修士の学位を取得したのち、総合文化研究科超域文化科学専攻に入学したという経歴が強く反映されており、まさに伊東氏ならではの「超域文化科学」論文ということができるだろう。また、伊東氏は理論研究のかたわら、作曲家、指揮者としても音楽の現場で活動を続けており、その実際的な経験による裏づけが、本論文に厚みと深さを与えていることも間違いない。伊東氏の理論と実践の両面にわたるこれまでの経験が十二分に活かされた本論文は、「音楽」の基礎研究として画期的な業績であり、今後の研究に大きな示唆を与えるものとして高く評価することができる。また、20世紀の音楽に重要な位置を占める何人かの音楽家に、新たな視点から鋭い分析を加えている点でも、その意義は大きい。ただし、音楽の基礎を人間存在そのものの本質にまで立ち入って考察しようとする熱意に駆られるあまり、音楽行為の「倫理」に関してはやや性急に議論を進めすぎるきらいがある。それが伊東氏自身の音楽実践に深く関わる問題であることは十分に理解できるし、たんに理論研究にとどめることなく、行為へとみずからの研究を開いていこうとする態度も現代の研究者としては好ましいものではあるが、厳密な論理構成をほどこした動力学的理論と倫理をめぐる哲学的思弁とのあいだで、不整合をきたしている面があるのは残念である。今後よりいっそう思索を深め、理論と実践の両面でさらなる発展をもたらすことを期待したい。

 以上の点を総合的に判断して、審査委員会は全員一致をもって、本論文が博士(学術)の学位にふさわしいものと判定する。

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