同じ文章を黙読するのと、語り聞かす声に耳を傾けるので、全く別の経験が得られる。 声はより易々と人を動かす。さらに言葉ならざる音の持つ強い力が時として多くの人々の運命までも左右する。にもかかわらずその力の由来を私たちは即座に言語を用いてつまびらかには出来ない。今世紀前半のファシズムの高揚にはラジオなど音声メディアが大きな役割を果たした。アーレントARENDTは戦後ごく普通の人々が日常的な感覚で集団で狂気に走った事実を告発した。またアドルノADORNOはアウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮だと戦後芸術に厳しい倫理的審級を糺した。ドイツのダルムシュタットを中心に、アドルノらは記憶の残沙に拠らない戦後音楽の倫理的な「零時」からの再出発をシェーンベルクSCHOENBERG=メシアンMESSIAEN由来の「音列主義」として指導した。折しもDNAの二重らせん構造が発見され、世界のあらゆる要素は過去の記憶と無縁な「要素の配列」で記述できるかに見え、音列主義は絶大な説得力を獲得する。その中で的確な数学的モデル空間を用い徹底した総音列主義を確立推進したのがブーレーズBOULEZだった。やがて音列音楽は過度に複雑化して多声楽的には聴き分け不能に陥る。その状態に最初で最大の衝撃を与えたのがやはり数学的な相空間モデルを用い響きの総体を統計的な一つのものとして捉えるクセナキスXENAKISの「確率音楽」だった。さらに40年代末期からブーレーズらとも親しく通じ戦後芸術の問題意識を共有しながら根本的に異なる独自な音との関係を提起したケージCAGEの「偶然性の音楽」が、以後最も広範な影響を及ぼし続ける。等しく恣意性の排除と関わりつつ全く異なった展開を見せるこれらの音楽。私たちは今日、一面で、ある距離を置きつつ、現代の古典としてこれらを平行して演奏し、他方で新たな音楽のポイエーシスを占う強力な灯標としてもこれらを参照するのである。そのようにして彼らの音楽に関わりつつ、それらの相互関連から垣間見える、より本質的な問いの存在に、やがて漠然とながら気づくようになった。実践的な営為を通じて、その問いが求める解答が、意識や自我を静的staticに捉えられるのでなく、無心ながら、より動的dynamicな行為の水準で捉えられるものだと遂には理解するに至った。やがてクリックCRICKによる、意識は脳内の有機的な物質過程だけで説明できるとする唯物還元的な研究やプリゴジンPRIGOGINEによる、自身の内から生命の創発をも可能とする非線形力学系の研究を知り、我々が求めるものが、用語の正確な意味で「動力学的dynamical」な基礎科学と関わることが判明した。ここで動力学的なものとは、システムの不安定性や不均一性を動的生成の積極的要因と見、そこから高次の創発を導こうとする系一般を指す。自らの身体や意識をも含め物質的に基礎づけられた動力学的理論によって音、そして音楽と私たちの存在と意識の関わりはいかに説明されるか。アドルノやアーレントの問題は、あらゆる日常に峻厳な倫理をもち、つねに終わらない本質的な問いを発し続ける。 音と私たちの生とはどのように関わるか、私たちは、いかに暴力を回避し、そこで何に気づくべきなのか。この問いを巡り、以下の様に考察を進めた。 第0章では、音楽を巡る問題が本質的に非線形な動力学的側面を持つことを、他ならぬ西欧近代音楽の原点というべき、ノートルダム楽派によるポリフォニーの創始を例に詳述する。0.0では、身体と空間の知覚科学の見地から、オルガヌムの誕生が動力学的創発の性質を持つこを示す。ここで言う創発emergenceとは、前提となるあからさまな与件が特定されない形で、システム全体に立ち現れる非線形特質を指す。0.1では西洋古典古代における音楽思考がむしろ動力学的な自然学の性格をもつことを確認し、その基礎から、われわれが準拠しがちである西欧近代的な音楽思考の静的線形性に注意し、0.2でその限界を破るものとしての動力学的問題設定の有効性を確認する。 第1章では聴覚が本質的に持つ非線形特質を詳述する。ここでいう非線形性とは、入出力間の非線形応答、すなわち定数係数をもつ比例関係が成立しないことを指す。1.0では多細胞プランクトンからヒトに至る聴器の進化過程を追い、1.1では胎児から喃語獲得に至るヒトの発生における聴覚の発達を、音声言語と関係してあとづけてゆく。1.2に至ってヒト成人における「聴こえ」の非線形な特質が確認される。「聴こえ」の非線形性は知覚の側からは「錯覚」として捉えられるので、その音楽的な適用例にも末尾で触れる。 第2章では、全章でも触れた「音声」の際だった非線形性を音声合成の見地から確認することで、現状のディジタル・テクノロジーに立脚する新たなパラダイムが静的モデルの未解決問題に有効に作用することを、20世紀後半の音楽思考に即して具体的に立証する。2.0では基礎となるシェーンベルクの問題設定、2.1ではアナログ・シンセサイザーの技術水準と対応するブーレーズの音列音楽とボルツマンLudwig BOLTZMANNのエルゴード的な統計力学に対応するクセナキスの確率音楽が、おのおの線形的、および静的な解答例として示され、それらの問題を解決する上で、知覚と身体の動力学的問題設定が基本的であることを2.2で確認する。 第3章では、実際に音楽の身体営為を演奏の具体的側面から確認する。ここでは意識の捉え方が重要であり、3.0においてデカルト的に切断された二元論的な自我cogitoではなく、知覚と行為の回帰回路の循環に上って創発するものとして自己意識が捉えられる。その見地から3.1では、理念上は極めてデカルトRene DESCARTES的な性格をもつ19世紀西欧のロマン派音楽すらもが、身体技法の水準では動力学的本質をもつことをソルフェージュ、ピアノ奏法、および指揮法の3側面から詳細に確認し、併せて3.2で「回帰回路としての自己意識」の提唱者シェリントンSir Charles SHERRINGTONの倫理的考察にまで言及することで、当初の戦後芸術の基本的課題と対照する。 第4章ではシェリントンの議論を基礎に精神の外部性、ヒト群体における唯一性にまで言及するシュレーディンガーErwin SCHROEDINGERの意識論に触れるが、この指摘自体への判断はひとまず保留される。4.1ではそのような倫理と行為の科学に即して、自己受容器の外部性を確認し、併せて理性的判断が情動の発動に遅れる生理特性を確認する。4.2ではその情動の外部性に触れ、そこから生態音響学の視座への転換が試みられる。このような指向とジョン・ケージの「偶然性の音楽」との並行性、それらの行為の動力学的妥当性を4.3で確認する。 第5章では5.0で行為と言語的分節との関係をヴィトゲンシュタインWITTGENSTEINを援用し確認したのち、5.1で1990年代の解明水準で脳内過程を含む音の行為と環境認知の回帰的動力学回路の実像を把握、そのような非線形的創発を多体系の唯物的統計数理理論として定式化するプリゴジン理論の要点を5.2で詳説した。その視点から伝統的な西欧近代形而上学の静的誤謬を、クセナキスの事例で明らかにする。高橋に従いハイデガーMartin HEIDEGGERのパルメニデス読解を骨子とし存在と行為の動的本質を確認しケージ以後の聴取の行為性の見地から動力学的音楽の生成と気づきの行為としての倫理を明確化する。終章では、4.0以降保留している群体としてのヒトの意識の問題と動力学的な具体的議論との対応づけを確認し、そのような具体的実践として、ケージの没後その遺作の上演でケージの持ち分を筆者が担当したマース・カニングハム舞踊団Merce CUNNINGHAM Dance Company公演「オーシャンOCEAN」を報告し考察を付す。 これらの議論と考察から以下の五つの結論を導く。 1「音」と私たちの「生」とが、互いに切断された要素として関わりあう静的で二元論的な図式は、問題を有効に記述せず、それを解決することができない。 2意識現象は本質的に、行為を通じて知覚の回帰系が発動することで創発する。この意味で身体と世界像とは不可分で、明確な境界線を引くことができない動力学的な系Dynamical Systemを構成し、それを更新し続けている。 3音が介在する行為の知覚系では生のあらゆる局面で動力学的な音楽的生成が可能である。ここで言う音楽的生成とは、限りある実空間=実時間=身体の不可逆性「一期一会」を生きること自体に関わる美に対して開かれた、あらゆる動力学的生成Dynamical poiesisの総体を指す。 4言語及び記号的分節に適応した認知システムは一般に、認知=行為に先だって、あるいはそのさなかに、系、とりわけ情動回路などの脳幹及び大脳辺縁系に繰り込まれる非言語的、非記号的な入力を意識化することが出来ない。 5前項の様な知覚と意識現象の不可避な限界を前提に、身体行為と環境の総体が生成する在りようそのもの、とりわけ言語的記号的に分節されにくい音の現象に、回帰的意識の気づきを創発させる行為自体が、音楽の外にあって倫理として自らを示す。 参考に具体的な実践例を収録したヴィデオ・テープを添付した。 |