本研究は、色素の光物性について、主に光化学ホールバーニングを用い、色素分子とそれに影響を与えている色素の極近傍の環境を調べ、両者の相互作用についてその作用機序を明らかにしようというものである。また、本研究では、こうした色素のデータを蓄積し、新たな機能性色素の設計をする際の指針となることを目指し、研究を行った。 一般に光化学の研究においては、高密度光メモリーが注目されているが、センサー等への応用も研究されており、またバイオテクノロジーの分野においても、紫外線を当てると体内に自ら発光する分子を生成する遺伝子を持つネズミが登場するなど、社会の中でその担っている役割は大きい。 その中で機能性色素類は、広く研究され、また一般に用いられており、その基本的な物性を知ることは非常に重要であり、意義深い。 色素の吸収は、色素分子内の電子状態を表しており、溶媒の極性等分子の置かれている環境を反映し、溶媒の極性パラメータを求めたり、未知の環境(二分子膜、超臨界流体等)の物性の見積もりに用いられたり、「環境プローブ」として幅広く用いられている。しかし、色素の一般的な物性研究は溶液中の研究が多く、高分子中では不明な要素が多い。しかし、新規機能性色素を合成し、用いる際には溶液よりもむしろ固相で用いられることを考えねばならない。そのためには、既存の色素で種々の官能基を持つ色素の高分子中での挙動を研究しておくことで新規色素の挙動を予測し、また得られたデータが新たな色素分子設計への指針にもなりうると考えられる。 本研究では特に、色素として6員環を3〜4個持つフェノキサジン・フェノチアジン類を用い、これら色素の高分子中での、光励起状態における電子状態や緩和挙動が、環境の影響をどう反映するかを調べた。本研究は、上記の色素の極近傍が固体中でどうなっているかを探り、色素の環境プローブとして新たな局面を見いだそうとするものである。 図1.イオン性色素の構造 手段としては色素の吸収スペクトル、特に冷凍機を用いた極低温における光化学ホールバーニング(PHB)測定に加え、室温における定常光及び時間分解の発光スペクトル測定を用いている。 PHBは、高密度光メモリへの応用のみならず、極低温での基礎物性を調べる手段として注目されている。堀江研究室でも、極低温における色素の物性、高準位への光励起や電子移動、またマトリックスとなるポリマーによる環境の違い等を測定、研究する手段としてPHBを用いてきた。 一方、蛍光測定も励起状態の物性を調べる手段として、古くから幅広い研究が行われてきている。色素の励起状態がまわりの環境、主に極性によって安定化される、或いは不安定化される度合いが異なるため、色素分子によっては溶媒を変えることで大きく発光波長が異なってくる。本研究では、これを利用し、色素周りの環境評価の一手段として発光を用いている。 本論文の構成としては、PHBを中心に、アニオン性色素1,2のPHB実験、カチオン性色素3〜8のPHB実験とベタイン色素9を用いた発光測定の実験の3つから成る。 [1]アニオン性色素 色素として、オキサジン系色素のレザズリン・レゾルフィンを用い、ポリメタクリル酸メチル中で、主に20Kにおけるホール生成に、ジアミンの一種であるN,N,N’,N’-テトラメチル-p-フェニレンジアミン(TMPD)が影響を及ぼすことを見いだした。レザズリンという色素はN-オキシドという特殊な構造を持っているため、その他の部分の構造が完全に同じであるレゾルフィンと異なる挙動を示した。 ホール幅を測定すると両色素とも幅はTMPD添加により広がったが、ホール生成効率はレザズリンのみ下がった。一方レザズリンは生成したホールの耐熱性に改善が見られたが、レゾルフィンでは変化がなかった。 これらの違いは、N-オキシドという構造が極低温においても揺らぎやすく、ホールを不安定化させていたが、TMPDが水素結合を阻害したためにかえって周りの環境が固くなり、ホールが出来にくくなったが、出来たホールは安定になっていたと考えられる。 図2.ベタイン色素9の構造[2]カチオン性色素 カチオン性色素については、さらに深く水素結合との関連を調べるために、水素結合を分子中に無数に持つポリビニルアルコールを用いてTMPDの添加実験を行った。結果として、TMPDの有無でホール幅を変える要因はオキサジン・チアジン環の窒素原子にあり、その周りにかさ高い置換基を導入することで(色素4の2,8位のメチル基、色素5,6のベンゾ環、色素8の1,9位のメチル基)、TMPDの有無による差は小さくなっていった。 これは、TMPDの有無での窒素原子周りの水素結合のしやすさが、元々分子内の構造によって阻害(立体障害)されていたため、TMPDの添加の影響があまり見られなくなったと解釈することができる。つまり、ホール幅は色素の総緩和時間(Ttotal)によるが、ここでTtotalとは、励起寿命(T1)と位相緩和時間(T2*)を用いて の様に書けるので、ホール幅は色素の緩和の最も速い部分をあらわしていることになる。すなわち、色素の反応性を制御する、つまり緩和時間を制御するためには色素の六員環の窒素原子周りの分子設計を考えればよいと言うことになる。 ホールが生成するには、光励起前に分子がいたサイトから周波数の違った別のサイトへ色素分子が移る、つまりは水素結合の組み替えや切断等が必要がある。従って、ホール生成効率の変化が反映しているものは、光励起による色素周りの水素結合のしやすさ、つまり色素周りの水素結合しうる分子(水素結合供与体としてはマトリックスのポリビニルアルコールの-OH基、水素結合受容体としてはTMPD存在下では-N(Me)2基)の状態の変化である。つまりアミノ基やジメチルアミノ基等の置換基側の水素結合が大きく影響をしてると言える。 結果として水素結合受容性の色素では、TMPD添加によってマトリックスとの間の水素結合が阻害され、効率の低下がみられた。それに対し水素結合供与性色素では、TMPD添加によってマトリックスとの間の水素結合が阻害される一方で、マトリックスとの間の水素結合よりも弱いもののTMPDとの間に新たな水素結合が生成し、この変化によるホール生成が起こるため、水素結合供与性の高い色素では、TMPD添加によってホール生成効率が上昇するものまでみられた。 図3.色素分子周りの水素結合の模式図 次にチアジン系色素チオニン(7)のホール生成の結果を示す(図4)。 図4.チオニン/PVA系におけるTMPD添加効果(左:ホール幅; 右:ホール面積) この色素は六員環の窒素原子周りの置換基が無く、無置換のアミノ基を2つ持っている。結果は、まずホール幅は、マトリックスとの水素結合を弱める種々の添加物(TMPDや類似のジアミン(TMPD’:2,3,5,6-テトラメチル-p-フェニレンジアミン)、またテトラシアノベンゼン:TCNB)の添加によって増加した。ホール面積、すなわちホール生成効率はジアミンの添加によって、色素とジアミン間に弱い水素結合が生成し、その水素結合の変化によってホールが生成したため、添加物のないときよりも効率の増大がみられた。一方TCNBでは添加物のないときよりも効率が低下し、水素結合の受容体としてシアノ基がジメチルアミノ基よりも弱いことが示唆された。シアノ基が電子受容性を持つことから、ホール生成、つまり励起状態経由での水素結合変化に、分子内或いは分子間の電荷移動が大きく関わっていることを示唆しているとも考えられる。 [3]ベタイン色素を用いた発光 今まで溶液中の微環境検出用の色素としてS0→S1吸収のみが用いられてきたベタイン色素(Reichart’s Dye(ライシャール試薬):9)について、ポリマー中で発光することをはじめて見いだした。ポリビニルアルコール、ポリメタクリル酸メチル、ポリスチレン中での発光波長が、ポリマーの種類によって異り、環境評価のための発光プローブとしてこの色素を用いることが可能であるとわかった。発光は紫外域〜可視域にかけての高準位への励起により観測された。N-アルキルピリジニウム塩類も高分子内や低温において発光を示すことが知られており、この色素(9)も分子内にピリジニウム塩構造を持っていることから、類似の機構による発光と考えられる。本研究では、定常光による発光測定の他、発光寿命測定を行い、発光の成分を調べた。 以上のように、色素の基底状態と励起状態がその微環境からどのような影響を受けているのか、またその影響は分子の構造上どの部分に主に効いているのかをPHB及び発光測定により研究した。 PHBにおいては、以前の研究から水素結合変化がホール生成に重要な役割を担っていることが指摘されていたが、分子のどの部分が関係しているかについては全く情報が無かった。今回、分子内のどの部位の変化がどのように作用しているのかを明らかにすることが出来た点が意義深い。 また、ベタイン色素については、この色素についての発光の報告は本研究が最初であり、機能性色素の新たな局面を見いだし、機能性分子の新たな応用への可能性が探れた点が成果と思っている。 本研究で得られた色素とマトリックス分子及びTMPDとの水素結合状態に関する知見は、PHBの効率のみならず色素一般の性質に還元できる。これらの知見は新たな機能性色素分子設計への指針となりうると考えている。 |