本論文は4章からなり第一章は酵素多型からみたチチブ属の遺伝的分化、第二章はmtDNAの移入交雑、第三章は多所的・多重的移入交雑過程の復元、第四章は同所的集団における交雑と形態変異について述べられている。その概略は以下のとおりである。 ハゼ科魚類は約212属1875種程度の種が知られており、脊椎動物の中でも最も大きな"科"の一つである。その中のチチブ属魚類(Tridentiger)は7種が知られており、チチブ、ヌマチチブ、ナガノゴリの3種(狭義のチチブ類)は形態的に酷似しているにもかかわず、汽水性と淡水性に分化している。これらチチブ類の形態的類似性は、その種分化が比較的新しい出来事であるか、あるいは現在まだ種分化の途上にあるかもしれないことを示唆しており、淡水と海水という異なる環境の接点である汽水域において、一方の環境から他方の環境へと適応し、新しい「種」を生じる過程を明らかにするために適した研究材料である。本論文では、これらチチブ類の遺伝的・系統的関係、生殖隔離の有無とその程度、種形成をめぐるダイナミクスを明らかにし、生殖隔離の機構の進化について考察した。 第1章.酵素多型からみたチチブ属の遺伝的分化 まず、チチブ属魚類7種についてそれぞれの間でどの程度の遺伝的分化をとげているかを推定するためにアイソザイム分析をおこなった。その結果、形態形質では厳密に区別することはできないチチブ・ヌマチチブ・ナガノゴリの3種類の間で明らかな遺伝的分化が存在することが明らかになった。 第2章.mtDNAの移入交雑 7種類のチチブ属魚類はそれぞれ遺伝的に大きく異なっていることが明らかになったが、mtDNAの中のチトクロームb遺伝子の部分塩基配列(402塩基対)を決定、比較したところ、チチブとヌマチチブの塩基配列は非常に類似していた。また、系統解析の結果、チチブとヌマチチブのmtDNAは2つの分類群に分けられない事が明らかとなった。こうしたアイソザイム分析とミトコンドリアDNAの解析結果の不一致は、チチブとヌマチチブがごく低頻度であっても交雑していることによるmtDNAの移入であり、これらの魚類における「mtDNAの系統」は「種の系統」ではなく移入交雑の歴史を反映しているものと考えられた。 第3章.多所的・多重的移入交雑過程の復元 チチブとヌマチチブのmtDNAは、交雑によって「種」の系統をあらわさなくなっていると思われた。そこで、チトクロームb遺伝子の部分塩基配列をより多くの個体について決定し、その地理的変異と系統、雑種個体群内での変異をもとに遺伝子移入の過程の復元を試みた。その結果、それらは系統的に1)本州太平洋岸、2)九州〜西日本太平洋岸、3)日本海〜東北太平洋岸の3つのサブグループに分けることができた。各サブグループ間の遺伝的距離をもとに分岐年代を試算すると少なくとも20万年以前の分岐が示唆され、過去の地質時代における太平洋、東シナ海、日本海の間での分断と、その後の海流による分散を想像させた。また、同所的生息地である涸沼における両種と雑種のmtDNAの変異を調べた結果、ヌマチチブからチチブへというmtDNAの移入の方向を示した。 これらの結果をもとに、遺伝子移入の系統的復元をおこなった結果、mtDNAが各地域の中で2〜3回以上の移入が生じたことが推定された。したがって、チチブとヌマチチブは両「種」が分化するような隔離があった後、分布が重複し、そして両「種」を内包した3地域の中で数十万年レベルの交雑によって繰り返し遺伝子移入を続けてきたものと考えられた。 第4章同所的集団における交雑と形態変異 最後に、チチブとヌマチチブが同所的に生息する涸沼において、雑種の出現頻度と両種の形態形質を比較した。その結果F1雑種は1.7%、戻し交配は2.4%含まれており、残りの94.9%は調べた酵素遺伝子座に関して交雑の痕跡のないチチブとヌマチチブであったことから、配偶者認識の段階での生殖隔離の存在が示唆された。また、戻し交配と推定される遺伝子型は、F1と同様にわずかな頻度しか観察されなかった。したがって、生殖隔離機構として交配前隔離とともに雑種崩壊(hybridbreakdown)も存在することが示唆された。さらに形態変異として、生態に関わりが深い2つの形質(胸鰭条数と鰓把数)について比較したところ、生殖隔離機構の進化に種間競争は重要ではない可能性が示唆された。 なお、本論文の第1章は、森澤正昭・嶋昭紘・成瀬清・佐藤寅夫・稲葉一男との、第2章は森澤正昭・嶋昭紘・成瀬清・佐藤寅夫との、第3章は森澤正昭・嶋昭紘・成瀬清・佐藤寅夫との、第4章は森澤正昭・佐藤寅夫との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析、検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。 |