生体系では、分子情報が主要な役割を果たすため、分子情報の認識変換・増幅処理が高度に発達している。1960年代のYalowとBersonによるイムノアッセイ法やUpdkeとHicksの酵素センサーの開発を初めとする生体高分子を巧みに利用した分析法の開発は、目的物質の高感度・高選択的な検出を可能にした。一方レセプターアッセイは、イムノアッセイでは不可能なホルモンや成長因子の測定、ホルモンとレセプターとの結合能の検討、新しい生理活性物質の発見等に有力な方法となっている。しかし、レセプターアッセイは目的物質とレセプターとのbinding assayを基本的な概念としており、生物活性とレセプターとの結合能は必ずしも一致しないと考えられる。生物活性の尺度を評価できる分析法は、目的物質のレセプターへの結合とそれに続く初段の情報変換、更に後段に続くシグナルを込みにした検出方法を構築することにより初めて可能になると思われる。本研究では生物活性物質の化学選択性評価法の創案として、細胞内Ca2+情報伝達機構に基づく金属イオン選択性評価法、及びインシュリンに代表されるキナーゼ型膜蛋白質情報伝達機構に基づくアゴニスト選択性評価法の基礎研究を行った。 第一の研究課題である細胞内Ca2+情報伝達機構に基づく金属イオン選択性評価法の創製を行った。カルモジュリン蛋白質(CaM)は、真核生物に普遍的に存在する148アミノ酸残基から成るCa2+結合蛋白質である。CaMは細胞内Ca2+活量の増加(10-7〜10-5M)に伴い、Ca2+に特異的な構造変化を起こし、標的蛋白質に結合する。合成ペプチドM13は、ミオシン軽鎖燐酸化酵素のCaM結合部位を構成する、26アミノ酸残基からなる塩基性ペプチドである。本研究では、CaMをCa2+に対する感応素子として利用し、Ca2+の結合により誘起したCaMとM13との結合によるCaM-Ca2+-M13三元錯体の量からCa2+情報伝達機構に基づく金属イオン選択性を評価するための新規化学センシングを試みた(図1)。三元錯体の量を評価するために、表面プラズモン共鳴(SPR)装置を使用した。表面プラズモンは、金属と誘電体との境界に伝播する電子の粗密波であり、境界における波数と角周波数との関係は、表面の誘電的変化に依存している。本研究では、金表面に固着されたデキストラン担体にM13を化学修飾し、CaM-金属イオン錯体がM13に結合することによる前記化学修飾膜の誘電的変化により生じる表面プラズモン変化から、Ca2+濃度依存性と金属イオンに対する選択性を評価した。誘電的変化を観測するために、金薄膜の裏側から全反射条件下で単色光を入射し、その滲み出し光(evanescent wave)と表面プラズモンを共鳴させ、その結果減少する全反射光をその全反射角度変化として検出した。 図1 実験方法図2 Ca2+濃度依存性(M)a)1.3x10-8b)3.4x10-8c)4.6x10-8d)5.2x10-8e)1.4x10-7f)3.1x10-7g)8.3x10-7h)1.0x10-5i)1.0x10-4j)3.0x10-4k)4.0x10-4 カルモジュリン蛋白質は牛脳から単離精製した。M13を金薄膜表面に固着してあるデキストラン担体に、M13の1級アミンを介して共有結合で固定化した。EDTA溶液(1.0mM EDTA,150mM NaCl,10mM HEPES,pH7.0)でデキストラン担体を平衡化した後、5.0MのCaMを含む金属イオン溶液(CaM溶液)をフローセルに4分間流した。結合したCaMを除くためEDTA溶液で3分間デキストラン担体を洗浄した。以上を1サイクルとし各金属イオン濃度のCaM溶液を繰り返しフローセルに流した。全ての実験は25.0±0.1℃、流速5.0L/minで行った。 Ca2+濃度変化に対するSPR応答を図2に示した。太い矢印は各Ca2+濃度のCaM溶夜を加えた位置を表している。1.4×10-7M以上では、Ca2+濃度に依存した応答が得られた。Ca2+溶液を加えた後、約3分で平衡に達し、EGTA溶液を流すと1分以内でベースラインにもどった。このSPR応答の増加は、活性化したCa2+-CaM錯体がM13に結合し、デキストラン担体の誘電的変化を誘起した結果である。以上の結果を、Ca2+濃度に対するSPR応答変化として図3aに示した。Ca2+濃度が1.4x10-7Mから8.3x10-7Mまで急激にSPR応答が増加した。8.3x10-7M以上では、緩やかにSPR応答が上昇した。初めの急激な上昇は、M13とCaMが安定な三元錯体を形成した結果と考えられる。一方8.3×10-7M以上ではM13の固定化に伴いCaMとM13との結合が立体的に阻害された結果、結合能が弱くなったためと思われる。 アルカリ金属、アルカリ土類金属に対するSPR応答を評価した(図3a)。測定溶液のpHは7.0で行った。Li+,K+,Rb+,Cs+,Mg2+に対しては、1.0×10-1Mまで応答しなかったのに対し、Sr2+は1.0×10-5Mから、Ba2+に対しては4.0×10-5Mから応答した。Mg2+とCaMとの安定度定数は、1.0×10-3M〜10.6×10-3Mであることから、1.0×10-1MではCaMはMg2+と結合している筈である。しかし、Mg2+に対し応答しなかったのは、Ca2+が結合した場合と同様な特異的な構造変化をCaMが起こさず、CaMがM13に結合しなかったためと考えられる。本研究のMg2+に対する結果は、これまでにNMRやESR法により構造化学的に調べられた結果、即ちCa2+が結合した場合と同様な特異的な構造変化をCaMが起こさないという結果と一致する。従って、本センシングシステムはCa2+情報伝達系に対し生理適合性のあるイオン選択性を評価するための新規な検出法となることが分かった。Li+,K+,Rb+Cs+に対しては、1.0×10-1Mまで応答しなかった。これらの金属イオンはCaMに結合しないか、又は結合してもCa2+が結合した場合と同様な特異的な構造変化を誘起しないイオンであることが分かった。一方、Sr2+,Ba2+はCa2+と同様のCaMの構造変化を誘起するイオンであることが分かった。 図3 濃度依存性 Y3+及びPm3+を除くランタノイドに対するSPR応答を評価した。測定溶液pHは6.0で行った。図3bには、La3+,Eu3+,Lu3+についてのみデータを記した。本研究で評価した希土類金属イオンは全て1.0x10-5Mから1.0x10-4MまでSPR応答が大きく増加した。1.0x10-4M以上では、SPR応答が減少した。初めのSPR応答の増加は、希土類金属イオンがCaMと結合して安定なCaM-希土類-M13三元錯体を形成したことを示している。一方、1.0x10-4M以上のSPR応答の減少は、希土類イオンがCaMとM13の結合を阻害したか又はCaMの特異的な構造変化自体を阻害したために、安定な三元錯体を形成しなかった結果と考えられる。 次に遷移金属に対するSPR応答を評価した(図3c)。Co2+,Ni2+,Mn2+,TI+に対しては1.0x10-3Mまで、Cu2+,Zn2+に対しては1.0x10-4MまでSPR応答しなかった。これらの金属イオンは安定なCaM-遷移金属-M13三元錯体を形成しなかったことを示している。一方、Cd2+,Pb2+は1.0x10-5Mから応答することから、Cd2+,Pd2+は安定なCaM-Cd2+-M13及びCaM-Pb2+-M13三元錯体を形成するイオンであることが分かった。 本研究で調べた33元素を周期律表にまとめた(図4)。先ず一価金属イオンは全て安定なCaM-金属イオン-M13三元錯体を形成しないイオンであることが分かった。これは、Ca2+情報伝達系の活性化には二価以上のイオンの価数が必要であることを示している。次に第4周期以前の中には、Ca2+と同様の安定な三元錯体を形成するイオンが存在しないことが分かった。生体内必須金属元素及び必須微量金属元素は、第4周期以前に多く含まれているが、これらの金属イオンはたとえCaMに結合しても細胞内Ca2+情報伝達系を活性化しないことが分かった。一方、本研究で調べた第5周期以降の二価以上の金属イオンは安定な三元錯体を形成するイオンであることが分かった。X線結晶構造解析によれば、CaMはCa2+と酸素を配位子として7配位構造を取る。この配位構造は、Ca2+は酸素配位子と7〜8配位構造を最も取りやすいという錯体化学的知見と一致することが知られている。本研究で調べた第4周期以前の二価金属イオンは、酸素配位子に対して主に6配位以下の錯体を形成するのに対し、第5周期以降の二価以上の金属イオンは7配位以上の錯体を形成することが知られている。本研究の結果と錯体化学の知見から、CaMを介したCa2+情報伝達系を活性化するイオンは、酸素配位子に対して7配位以上の錯体を形成する二価以上の金属イオンであることが分かった。 以上よりCa2+情報伝達機構に基づく検出法を構築し、本検出システムがCaMと金属イオンとのbinding assayでは得られない生理適合性を有する金属イオン選択性評価法となることを示した。 図4 本研究で評価した金属イオン(太い枠)CaM-Metal ion-M13三元錯体を形成するイオンは枠内を灰色で示した 第二の研究課題であるインシュリン情報伝達機構に基づくアゴニスト・アンタゴニスト選択性評価法の創製を行った。インシュリン蛋白質(Ins)は、グルコースなどの分泌刺激に応じて膵臓細胞から放出される血糖降下作用性ホルモンである。インシュリンレセプター(IR)は血液中のIns濃度の上昇に伴い、Insに特異的な構造変化を起こしATPの加水分解エネルギーを利用して細胞内基質IRS-1蛋白質を燐酸化する。合成ペプチドY939は、IRS-1のIR燐酸化部位を構成する11残基からなるチロシン含有合成ペプチドである。本研究では、IRを感応素子としInsの結合により誘起したIRの燐酸化能、即ちチロシン残基が燐酸化されたY939ペプチドの量からIns情報伝達機構に基づくアゴニスト選択性を評価する新規検出法の創案を行った(図5)。 IRはヒト胎盤から単離精製した。Y939ペプチドのC末にシステインを導入し、システインのチオール基を介してbiotinを共有結合で固定化した。96穴プレートにavidinを物理吸着させbiotin-avidin結合によりY939ペプチドを固相に固定化した。次にIRを含む溶液(1.7mM MnCl2,50M ATP,150mM NaCl,10mM HEPES,pH7.4)に各濃度のInsを加えY939ペプチド上に加え1時間反応させた。燐酸化されたY939ペプチドの量は、ペルオキシダーゼ標識した燐酸化チロシン特異抗体を加え、未反応の抗体を洗浄した後、過酸化水素と基質DA-64を加え緑色生成物の波長727nmを吸光分析した。 Ins及びバナジウムイオン濃度依存性を評価した(図6a)。Ins濃度が1.0x10-10M以上では、Ins濃度に依存した応答が得られた。本研究で得られた中間効果量ED50は2.2x10-8Mであった。この値は、Ins刺激による細胞内基質IRS-1の燐酸化量から評価された値、1〜4x10-9Mに較べ約10倍高い。これは、Y939ペプチドを直接プレートに固定化したため、IRとY939ペプチドとの結合が立体的に阻害され、結合能が弱くなったためと考えられる。一方、VO2+,H2VO4-に対しては、1.0x10-4Mまで応答しなかった。H2VO4-はInsと同様の細胞内への糖の取り込みを促進するイオンであることが細胞化学的研究により解明されている。しかしH2VO4-はIRには直接作用せずIRのキナーゼ活性を上昇しないイオンであることが知られており、本研究のH2VO4-選択性の結果と一致すことが分かった。 図5 実験方法 1MのIns存在下IRの特異的阻害剤であるtyrphostin25に対する応答を評価した(図6b)。Tyrphostin25濃度が1.0×10-4M以上でtyrphoshin25濃度依存的に燐酸化反応の阻害効果が観測された。1.0x10-5Mでは、tyrphostin25を加えない場合の吸光度と変化がなかった。Tyrphostin25は、IRのATP binding siteに結合することが知られている。本研究の濃度に依存した阻害効果は、IRのATP binding siteにtyrphostin25が結合し、ATPとIRとの結合が阻害されたためにY939ペプチドへの燐酸化反応が進行しなかったことを示している。以上から、本検出システムはIns情報伝達機構に基づくアンタゴニスト評価法となることが分かった。 インスリン非依存型糖尿病治療薬として近年開発中のtroglitazoneに対するレセプターの燐酸化能を調べた(図6c)。Troglitazoneを含まないリファレンスシグナルは、Ins濃度が4.0x10-10Mから4.0x10-8Mまで大きな応答の変化が観測された。更に4.0x10-8M以上では緩やかな応答の変化が観測された。1nM及び1Mのtroglitazoneを含む場合は、troglitaozoneを含まない場合と同様のIns濃度に依存した応答が得られた。各Ins濃度におけるtroglitazoneを加えた場合とリファレンスシグナルとの差には、統計的に判断して有為な差が無かった。従ってtroglitaoneはIRに対してアゴニストとしてもアンタゴニストとしても作用しないことが分かった。 以上本研究において細胞内Ca2+情報伝達系及びレセプターキナーゼ型情報伝達系に基づくnon-binding assay的な分析法の開発を行った。この様な生理適合性を有する検出システムはその一般性からフォスファターゼ型やG蛋白共役型、細胞内情報伝達物質としてのcAMPやイノシトール三燐酸などの情報変換システムにも応用可能な分析手法の創案の可能性を充分に示唆している。 図6 濃度依存性 |