内容要旨 | | 【背景】 体幹への力学的ストレスに対する脊椎の防御機構の一つとして腹腔内圧(intra-abdominal pressure:以下IAP)の存在が挙げられる。IAPとは骨盤,腹壁,脊柱,横隔膜によって閉鎖さされた腹腔内の静水圧を意味し,その測定には胃内圧,腸内圧,直腸内圧などが用いられる。Keith(1923)は物体の挙上動作におけるIAPの上昇を確認し,IAP上昇が体幹支持力を上昇させることにより,椎間板内圧(intra-discalpressure:以下IDP)を減少させるとした仮説を提唱した。Davis(1959)らの古典的な研究によってIAP上昇がIDP減少に寄与するという説が一時期は定説化されていたが,これに対しNachemson(1964)らによりIAP上昇にともなってIDPも上昇することが実測された後は,Keithの仮説には否定的な研究結果が多い。IAPに関する先行研究では,IAPの力学的な機能として体幹の伸展モーメントを生ずる点や,腰椎へのストレスを反映する指標として捉えた研究が多く,動作としては肉体労働者の腰痛発生機転である物体の挙上に関する内容が多かった。これに対し,著者はより複雑な動作を念頭に置き,総合的なIAPの機能と意義の解明を目的として,体幹の能動的な運動や外力に対するIAPの応答等についての一連の研究を実施した。以下,その概略を述べる。 【方法】 IAPはMiller社製ののカテーテル型圧センサーを用い,直腸内で計測した。この際,肛門括約筋などの筋収縮の影響が混入しないよう,十分深くセンサーを挿入した。筋力測定はサイベックス社製Cybex770-NORMまたは川崎重工社製マイオレットとそれぞれの専用体幹筋力測定用アタッチメントを使用した。筋厚の計測にはAloka社製の超音波計測器(SSD-2000)を使用した。 実施した測定内容には, 1)最大努力でのバルサルバ(随意的IAP上昇)および等尺性筋力発揮におよぼす呼吸相(平常時,最大呼気時,最大吸気時,瞬発的呼気)や体幹姿勢(屈曲位,回旋位)の影響, 2)IAP,体幹筋力(伸展,屈曲),体幹部筋厚(脊柱起立筋,腹斜筋群,腹直筋)の関係, 3)体幹屈曲,伸展および回旋筋力(瞬発的または非瞬発的筋力発揮)とIAPとの関係, 4)腰痛者における体幹筋力とIAPの関係, 5)自転車駆動中の脊椎運動に及ぼすIAPの影響,などが含まれる。 【結果および考察】1)バルサルバおよび等尺性体幹筋力発揮時のIAPに及ぼす呼吸相または体幹姿勢の影響 呼吸については,最大呼気時のIAPが低値を示し,瞬発的な呼気時にはやや高値を示す傾向が認められた。一方,体幹回旋位や屈曲位などの体幹姿勢がIAPに及ぼす影響は顕著には認められなかった。この結果より,IAP上昇には呼吸運動,すなわち横隔膜の活動が強く影響することが示唆された。 2)IAP,体幹筋力,体幹部筋厚の関係 IAPと体幹伸展筋力が強い相関を示したが,屈曲とは相関が認められなかった。IAPと体幹筋厚および体幹筋厚と筋力との間には相関は認められなかった。この結果より,体幹伸展筋力を発揮するにはIAP上昇が不可欠であり,IAP上昇に伴う体幹の安定化が筋力発揮の必要条件となっているものと推察される。一方,屈曲についてはIAPと関係が認められず,また腹直筋厚と筋力にも関係が認められないことから,股関節屈筋力が強く反映するものと推測される。 3)体幹屈曲,伸展および回旋筋力(瞬発的,非瞬発的)とIAPの関係 瞬発的,非瞬発的を問わず,体幹伸展および回旋とIAPとの間には強い相関が認められた。また,瞬発的な筋力発揮では筋力発揮直前にIAPの上昇が認められた。以上より,屈曲を除く体幹筋力発揮においてはIAP上昇による体幹の安定化が不可欠であり,特に瞬発的な動作ではfeed-forward機構により,予備的にIAP上昇が起こるものと推測される。 4)腰痛者における体幹筋力とIAPとの関係 スポーツ活動を実施している軽症の腰痛者においては,体幹筋力の低下,体幹伸展/屈曲筋力比の変化は認められなかった。一方,筋力-IAP関係において腰痛者の方が低い相関を呈した。以上より,腰痛者においては体幹固定能力の調節機能に乱れが生じ,体幹へのストレスを予測した適切な体幹固定能力の発揮が障害されている可能性が示唆された。 5)IAPが自転車駆動中の脊椎運動に及ぼす影響 予測に反し,負荷の増大に伴うIAP上昇は認められなかった。一方,随意的にIAPを上昇させた結果,胸椎部の運動が特異的に増大することが分かった。以上より,IAPの上昇により自転車駆動中の脊椎運動が腰椎から胸椎へ分散され,腰椎部へのストレスの集中を抑制する機能を有していることが示された。 【総括】 IAPの上昇は単に体幹を固定し,体幹伸展動作や物体の挙上動作を補助するのみではなく,体幹回旋など他の種々の運動においても,脊椎へのストレスに応じて不随意的に増大し,体幹への機械的ストレスから脊椎を保護する機能を有していることが推測される。また,瞬発的な筋力発揮において筋力発揮前にIAPが上昇することから,その制御にはfeed-forward機構が関与していることが推測される。さらに,IAP上昇は体幹を強固に固定するだけではなく,自転車駆動などの周期的な運動において脊椎に適度の運動を許しつつ,ストレスの分散機能を果たしていると考えられる。以上より,IAPは総合的に脊椎を機械的ストレスの集中を防ぎ,応力の分散を担っていると考えられる。 |
審査要旨 | | 本論文は、脊椎の防御機構の特徴をなすものとして腹腔内圧(intra-abdominal pressure:以下IAP)をとらえ、腹空内圧を多角的に検討し、その臨床的意味を明らかにしようとするものである。 IAPとは骨盤、腹壁、脊柱、横隔膜によって閉鎖された腹空内の静水圧を意味し、その測定には胃内圧、腸内圧、直腸内圧等が用いられている。IAPを強めることは、昔から腰痛症の治療法として腹筋のトレーニング同様臨床上よく用いられているが、その意味を科学的に解明しようとした試みは余り行われていない。Keithらの研究により一時はIAPは椎間板内圧の上昇をおさえると言われていたが、Nachemson以来IAPと椎間板内圧は連動すると言われており、IAPの役割についてまだ不明の点も多い。本論文はIAPの呼吸による影響、体幹筋力や体幹部の筋厚との関係、腰痛の既往との関係、さらには自転車駆動中の変化や、外力に対する応答などについて順序だった実験がおこなわれており、これらの実験結果より、IAPが体幹への力学的ストレスから脊椎を保護している役割を果たしていると主張している。 本論文は内容的には6つの実験からなる。実験1(第2章)は、「バルサルバおよび体幹の等尺性筋力発揮時のIAPに及ぼす呼吸相、体幹姿勢の影響」に関するものである。呼吸相としては平常時、最大呼気時、最大吸気時、爆発的呼気中を設定し、体幹姿勢としては、屈曲0度、30度、60度、回旋30度、60度の姿勢で行った。なお筋力計測はCybex770を使用し、IAP計測はカテーテル型圧センサーを直腸内に挿入した。結果として腹空内圧は5〜15kPaの値を示した。呼吸については最大呼気時のIAPが他の相に比較して70〜80%程度と有意な低値を示し、また瞬発的な呼気時にはやや高値を示す傾向が認められた。一方体幹回旋位や屈曲位などの体幹姿勢はIAPに有意な影響をおよぼさなかった。この結果からIAPの上昇には、腹横筋、腹斜筋等の腹部筋に加え、呼吸運動に強い影響を与える横隔膜の活動が関与することが強く示唆されるとともに、最大呼気時以外では呼吸はIAPに影響しないことが明らかになった。 実験2(第3章)は「IAPと体幹筋力、筋厚との関係」についてのものである。体幹筋力としてはマイオレットでの伸展屈曲筋力を、体幹部筋厚としては超音波での脊柱起立筋、腹斜筋群、腹直筋の筋厚の計測を行った。結果としてIAPは体幹伸展筋力と強い相関を示したが、屈曲筋力とは相関が認められなかった。またIAPと筋厚、筋厚と筋力の間には相関は認められなかった。この結果から体幹伸展筋力を発揮するにはIAP上昇が不可欠であり、IAP上昇により体幹の安定性が得られるものと思われる。一方体幹屈曲との間にはIAPとの関係が認められないが、これは屈曲動作時に腰腸筋をはじめとする股関節屈筋が関与するためと考えられた。 実験3(第4章その1)は「体幹屈曲、伸展および回旋筋力(瞬発的、非瞬発的)とIAPの関係」についてのものである。実験方法は実験1に準じて行い筋力カーブとIAPカーブの時間的ずれに着目した。結果として瞬発的、非瞬発的に関わらず体幹伸展および回旋筋力とIAPとの間には強い相関が認められた。また瞬発的な筋力発揮ではIAPカーブは筋力カーブ上昇の0.13〜0.24秒前に上昇が認められた。これらにより屈曲を除く体幹筋力発揮では体幹安定化のためにIAPの上昇が認められ、特に瞬発的動作ではfeed-forward機構により予備的にIAPが上昇すると理論ずけられた。 実験4(第4章その2)は「腰痛者における体幹筋力とIAPとの関係」についてのものである。スポーツ活動をしている軽症の腰痛者を対象として前章と同様な手法での体幹筋力測定とIAP計測を行った。結果として体幹筋力の低下は観察されなかったが、筋力とIAPの関係では腰痛者の方が相関が低く、腰痛者においては体幹固定の調整機能に乱れが生じていた。 実験5(第5章)は「IAPが自転車駆動中の脊椎運動におよぼす影響」についてのものである。負荷を50,100,150wattに変え、またIAPを8,16,24kPaに変えて自転車駆動を行わせそのときのEMGと脊柱の揺れを計測した。結果としては負荷の増大に伴うIAPの上昇は見られなかったが、随意的にIAPを上昇させると胸椎部での揺れが特異的に増大することがわかった。これによりIAPの上昇は腰椎部の安定化を図るとともにストレスを胸椎部に逃がす働きがある事が示唆された。 実験6(第6章)は「脊椎への外力に対するIAPの応答」についてのものである。骨盤部を固定し胸部にロープを縛り付け、この先端に10kgのおもりをつける。このおもりを1m落とす時の衝撃荷重により生じる上体(脊椎)の前傾量(移動距離)とその時のIAPの値を開眼時と閉眼時で比較した。結果として衝撃を与えるときの予備的なIAPの値と上体の移動距離は負の相関を示し閉眼時により著明であった。これによりIAP上昇は脊椎の安定化に寄与するとともに開眼時には他の防御的要素が関与するためIAPの上昇が修飾されることが証明された 以上の実験結果は何れもIAPの体幹安定化への役割を証明したものであり、IAP上昇は単に体幹の固定力を高めるのみでなく、体幹への力学的ストレスから脊椎を保護し、かつ脊椎にかかる負荷を分散させる役割を果たしていることが本研究で明らかになった。なおIAPの値は最大で20kPa程度でありこれ自身が力学的な作用を脊椎などに直接及ぼすというよりは、このIAPを生じさせるための腹部周囲筋、および横隔膜の筋力と筋硬度が体幹の安定化に重要な役割を果たしている。本研究は今まで漠然としていたIAPの役割をはじめて各種条件下で定量的に明らかにしえたものでありその研究の意義はきわめて大きい。よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。 |