満州事変以前の1910、20年代の時期にハルビンを中心とする北満州の経済的地位はすでにかなり高く、しかも日本との関わりもかなり深かった。にもかかわらず、日本において経済史研究の対象としてあまり取り上げられてこなかった。例えば、味岡徹氏の「ロシア革命後の東三省北部における『幣権回収』」、吉村道男氏の「日露戦争後における北満州・沿岸州視察報告の特質」、李明氏の「日露戦争後における満州の南北分割について」などがあるが、しかしこうした満州事変以前の北満州を対象として正面から取り組んだ研究はわずかであった。その以外に実際は日本における中国東北に関する研究は相当蓄積があるが、しかしその成果があるとともに、問題点も幾つか残されていると思われる。それは概していえば、先ず第一、これまでの研究はやや東北の南部に偏っており、北部に関する研究は相対的に不足していることである。実は、満州事変以前の東北北部と日本の経済関係を限って見ても両者は相当深く関わっていた。例えば、1920年代には数千人の日本人がハルビンに常住し、貿易、金融、工業等様々な経済活動を行なっていた。一方、ハルビンの中国商人はハルビンに来た日本人とただ受け身的に取引をするのみならず、自ら日本に出向いて見学したり、商売したりしていた。ましてや国際色が濃いハルビンは日本の勢力圏外にあるので、そこに進出した日本人と中国人との関係は、南満州のそれと比べれば、一層複雑であった。というのは、そこには中国人、日本人の他にロシア人をはじめとする欧米人が大勢おり、皆激しい競争に加わったからである。そのような独自の特徴を持つ東北北部と日本の経済関係の実態及びその背景を立ち入って研究することは十分に価値があることだと言えよう。 第二には、日本経済史分野における従来の東北経済史に関する研究は殆ど植民地史として中国東北を対象に扱っているために、日本サイドの中国に対する侵略の原因やその特質は周到に究明されたが、しかし東北地域自身の経済発展のメカニズムに関してはあまり言及されていない。一地域としての中国東北経済は歴史的要因に規定され、関内や南方と比べると共通性があるとともに特殊性も著しく持っている。例えばその特殊性について言えば、人口の密度が非常に低いこと、耕地として利用できる土地が広大にあること、労働人口の構成は移住者が多く、しかも流動性が高いこと、早くからもロシアと日本の政治、経済の勢力による影響を強く受けているために、経済の対外依存度が比較的高いこと、在来産業は弱いこと、南と北両地域の経済的独立性が相対的に高いことなどが挙げられる。すなわち、特殊性を持っている東北はそれなりの内在的経済発展メカニズムがあるはずである。従って、日本と中国東北の経済関係を究明しようとすれば、東北経済の実状に合わせて、その内在的発展のメカニズムを重視する視角も欠かせないことであろう。 第三には、従来の研究はロシア革命以降、ハルビンをはじめとする北満州は満州事変まで事実上主権回収が成功したことを看過してきたきらいがある。ロシア革命後ハルビンにおけるロシア勢力が俄に崩壊し、それまで彼らに握られていた主権は中国人の手に戻った。そのために、ある意味で言えばハルビン市及び中東鉄道地域は植民地的支配から解放されたと言っても過言ではなかろう。しかもこのことによって政治の分野だけでなく、経済の面でも大きな変化がもたらされたのである。つまり満州事変までの間においては主権を回収できた東北地方政権及び中国の経済関係者らは、抑圧された時期になかった勢いで経済活動を展開し、大きな成果を成し遂げていった。ハルビンにおける民族資本の割合が東北全域において例外的に優位を占めていたことはその有力の証拠といえよう。満州事変以前の東北経済を論ずるにはこの本質的な変化を重要視しなければならないと思う。 したがって、本研究の課題は1910、20年代の中国東北北部、所謂北満州における中心都市であるハルビン及びその周辺地域と日本との経済関係の実態及びそのような経済関係が結ばれた歴史的な原因を明らかにすることである。 本論文の構成及び概要は以下のとおりである。 第1章は、「ハルビン市場をめぐる中国と日本の商人の競合関係」である。この章において先ず鉄道の開通によるハルビン市場圏の形成過程を概観する。その中で、主に流通機構に重点をおいて分析を行なった。それから、ハルビン市場に進出した中国と日本の商人がそれぞれ占めている地位、その企業形態、取引慣習などについて分析した。最後に国際市場との関連に注目しながら中国と日本の商人の間にあった競合関係を成立させたメカニズムを明らかにした。 第2章は、「金融業における中国人と日本人の抗争関係」である。国際都市ハルビンの凄まじい成長を可能とさせたのは、ハルビンにおける金融業の発達であった。満州事変以前のハルビンには、中国はもちろんのこと、日本、米国、英国、ロシア、フランスなどの諸国の銀行、金融機構が多数存在していた。その間の競争が激しく演じられたことはいうまでもないが、しかし何よりも重要なのは、そうした多くの金融機関が存在していたために商品がスムーズに流れていたことである。本章においては、通貨の複雑な在り方、金融市場の構造、通貨の発行をめぐる中日間の攻防などについて明らかにした。 第3章は、「工業および電力業における中日間の競合関係」である。ハルビン市が誕生してまもなく近代的加工工業が定着でき、そして急速に成長できた理由の一つはエネルギー源としての電力事業の発達に求められる。ハルビンの場合、ロシア人による電力会社についで早くも中国人の経営する電力会社が生まれた。そしてロシア革命後、ロシア人の撤退に乗じて日本人関係者はロシア人の電力会社を買収し、たちまち猛スピードで事業拡大に努めた。その際、ちょうど中国全土にわたっての利権回収運動が展開し、中日間の事業独占権をめぐる攻防がかなり激しいものとなった。この章において、その競争の実態に迫り、そして其の現象面の背後にあった因果関係を究明した。 終章は、「総括と展望」である。満州事変以前のハルビン市を中心とする北満州地域を対象として、様々な側面から中日間の経済関係の歴史を総括した上で、満州事変以降の中日間の経済関係の様相を展望した。 以上の分析を改めて要約すれば、満州事変以前の1910年代、20年代の中国東北の北部、いわゆる北満の中心都市ハルビン地域での商業、金融業、工業及び電力業等の諸分野において中日両国の経済勢力が互いに競合した結果漸次中国側の方が優勢になり、日本側は反対に衰退の方向をたどったことが確認されたといえよう。しかも、そうした経済関係は基本的には市場メカニズムによる競合関係であったことも確認できた。すなわち、1910年代、20年代のハルビンにおける中日間の経済関係を論ずる場合、しばしば、中国政府による中国人商工業者への人為的、権力的支援の強さが指摘され、それが中国側の経済的優勢の根拠とされてきたが、そうした支援は統治主体としての当然の主権の発動と見做されるべきものが中心であり、競合関係のあり方を規定した基本的要因はあくまでも市場における競合だったと見なければならない。具体的に言えば、日本側商工業者の後退せざるをえなかった原因として本論文は下記の5点を指摘した。 1)市場の変化に対応する能力の差 対ロシア市場が消滅した際に、中国側商工業者は販売先を国内にシフトすることに成功したが、日本側の商工業者はあまりできなかった。 2)経営上の経費の差 当時のハルビンにおける商工業の従業員の賃金は、日本人は中国人の2倍だったので、とくに不況となると、業績におのずと差が出てくることになる。 3)消費者との距離の差 日本人の経済関係者は中国人消費者に対してあまり親近感を持っていないばかりか反対に中国人に対して軽蔑の意識がかなり強かったようである。 4)権力の支持の度合いの差 利権回収に成功した中国政府側の支持の下で、中国人商工業者は鼓舞され、民族工業及び電力業の分野において長足の進歩を成し遂げた。日本側の商工業者は不利の立場に立たされ、折角手に入れた製粉、製油工場を、大連中心主義という日本の政策に矛盾したために、中国人からの攻勢の前で支持を得られずに手放さざるをえなかったし、国策会社の朝鮮銀行、正金銀行、東洋拓殖等金融機関は、信用の低い日本人中小商工業者よりも信用のある中国人の方に積極的に融資していた。 5)経営組織と、相互の協力関係の差 中国各地に根を下ろした聯号組織と比べれば、日本の企業の大多数は個々バラバラに宙に浮いていたような状態であり、相互の協力関係が緊密ではなかったのである。 要するに、中国の主権がしだいに強化され、市場メカニズムがよく機能していた1910年代、20年代の国際都市ハルビンの市場において中日両国の商工業者は互いに宿命的な競合を繰り返したが、上述した諸々の要因によって漸次中国側の方が優勢になったのである。 |