まず、近世貨幣史研究の課題と方法を模索する試みを第I部の第一章「近年の江戸期貨幣史研究方法の展開」で行なった。この章では、従来の研究を「銭匁研究」 「十六世紀後半の貨幣流通」「考古学的方法」「その他」の四種類に分けてまとめたが、これにより、近年の近世貨幣史研究が、近世固有の貨幣現象を分析しようと試みることで大きな成果を挙げてきたことを明らかにできた。つまり、「銭匁研究」は江戸時代独特の「銭匁」という貨幣単位の存在を明らかにし、「十六世紀後半の貨幣流通」に関する研究は近世初頭において米が貨幣として用いられていた実体を明らかにした。「考古学的方法」による研究では六道銭などの貨幣に関する民俗が明らかとなり、また、中国史の研究者からは貨幣を国家支払手段と見る見方が提出された。 次に、第二章「十九世紀における銀貨出目獲得の計画性〜数量的研究の限界〜」では、第一章で見た研究方法とは正反対の数量的手法による研究論文、大倉健彦・新保博「幕末の貨幣政策〜開港と万延の貨幣政策〜」を取り上げ、このような研究方法が持つ問題点を明らかにした。すなわち、このような研究方法が、実証を十分に重視しなかったため、近世貨幣のヴィヴィッドな現象を捉えることが出来ず、近世貨幣政策が持つ計画性・規則性を見落としていたことを明らかにした。 以上の研究状況を踏まえ、本稿の中核となる第II部以降では、「パンダの親指と経済人類学」「進化論と経済学」「西鶴の大晦日 貨幣の論理と終わらぬ時間」などの岩井克人氏の貨幣に関する考察を導きの糸として依拠した。岩井氏は、人類学的知見に基づき、貨幣が前近代においては、近代のように商業的に使用されていたのではなく、政治的・儀礼的・呪術的に使用されていた史実を指摘した。そして、現在のパンダの親指が元々は手首の一部で、現在とは全く異なる機能をしていたという進化論の知見を踏まえると貨幣は「パンダの親指」であるとした。第II部以降では、このような貨幣観を踏まえ、江戸時代固有の経済=貨幣現象を分析するため、現在の貨幣=パンダの親指が、江戸時代においてはパンダの手首であったこと、すなわち、現在とは全く異なる貨幣の使用がされていたことを証明することを課題とした。 第三章「『御威光』と貨幣〜贈与による統治〜」で明らかにされたことは、貨幣が江戸時代において政治的・儀礼的・呪術的に使用され、江戸幕府は貨幣を政治的に贈与することを統治の重要な根拠としていたことであった。そして、このような貨幣の政治的な使用は特に将軍の代替わりの時に最も顕著に現れ、そのために、江戸幕府は貨幣の改鋳をしばしば行なった。さらに、江戸幕府が幕末に政治的危機に陥った原因は、この種の貨幣の政治的な使用に失敗したことであった。すなわち、長州藩は将軍が膨大な費用がかかる上洛をせずに高位を受けたことをきっかけとして尊王化していき、水戸藩は幕府の将軍代替わりの際の莫大な浪費を批判した。幕末開港後に幕府は威信を高めようと膨大な費用をかけて上洛を行なったが、西洋的自然観の流入などにより、贈与物が持つ政治的な力は次第に失われていった。 近世貨幣の前近代固有のあり方を示す二番目の論文が第四章「江戸時代における貨幣単位と重量単位〜大黒作右衛門の『匁』の貨幣単位化意図〜」である。イギリスの貨幣単位「ポンド」がもともとは重量単位だったように日本の江戸時代の貨幣単位「両」も十七世紀までは単なる重量単位であった。しかし、近世の代表的な重量単位である「匁」は幕末まで貨幣単位化されることがなかったため、貨幣単位の観点から検討されたことがなかった。本章では、近世貨幣の特権商人であった大黒常是が十九世紀に銀座から仕事を取り戻すため重量単位「匁」を名目化し貨幣単位化しようとしたことを明らかにした。勘定所もこの計画を真剣に検討したが、結局、却下となり、この時点で、日本の近代資本主義を担う貨幣単位は「両」=「円」へと譲られた。 さらに、江戸時代において、貨幣は管理通貨制下と異なり、地金の価値で通用していた側面が大変強かった。このことは、三井家が貨幣改鋳の際にとった対処を示す古文書の分析により明らかとなった。これが第五章「地金としての近世貨幣〜三井家の悪鋳への対応〜」である。これにより、三井家が貨幣の悪鋳に関する情報をいち早く集め、悪鋳となる貨幣を密かに売り出したり、商品の売値を変更したりするなど管理通貨制下では考えられない前近代固有の対処を行なっていたことを示した。また、市場の状況などから貨幣を売り出せないと判断したときには、その貨幣で商品を大量に買い込むなど、悪鋳への対処は徹底したものであった。また、文政の悪鋳が貨幣の交換手段機能を揺るがし商人の商売をやりにくくさせたことを明らかにして、先行研究の文政の改鋳に関する評価に修正をせまった。 さらに、本稿では、従来、近世貨幣研究において、他分野に比べ、古文書による実証が大変遅れていたことを問題視して、第III部で、主に事件史を中心として広範な実証を行なった。対象として事件史を取り上げた理由は、近世固有の「時代の調子」を知るためには、単なる詳細な制度史のみならず、江戸時代の人間が様々な事件に巻き込まれ行動する様を描写することが欠かせないと考えたからである。このため、取り上げた事件も江戸時代に固有と考えられる事件を中心に取り上げた。 すなわち、第六章「文化二年の贋包銀一件と大黒常是」でとりあげた贋包銀の事件は、江戸時代固有の貨幣信用システムである包金銀の制度を悪用したものである。江戸時代において貨幣は包まれて流通しており、特に大黒常是などの特権商が包んだ貨幣は信用度が大変高く、中身が開封されることなく通用していた。そのような慣習を逆手にとり、文化二年に、常是の出入り手代が、贋の銀貨を常是包で包み使用するという事件が起きた。この事件の研究により江戸時代固有の貨幣信用システムが内部から揺らぐ過程とそれが再興される過程が明らかとなった。 第七章「御金蔵一件と大黒常是」で取り上げた御金蔵をめぐる事件は贋包銀の事件で常是が押し込めとなっている間に、銀座が常是の仕事を担当したことで明らかとなった事件であった。すなわち、御金蔵に納められている銀貨が正規の量に足りないことが発覚し、常是と銀座は、不足額を補うのに奔走した。また、文政年間には、この一件で常是に協力的だった銀座の手代が常是に多額の借金を要求しに来るなど、御金蔵が、江戸時代において経済上、最大の禁忌であったがゆえの混乱が跡を引いた。 第八章の「銀座改正以後の大黒長左衛門」では、前近代の貨幣発行につきもののシーニョアレジに寄生する特権商人が避けることの出来なかった御家騒動を扱った。寛政十二年の銀座改正で貨幣に関する仕事をすべて大黒作右衛門に譲った大黒長左衛門は、すぐに復権工作を始め、作右衛門家も本家としてそれに協力していた。しかし、文政年間の末頃から、長左衛門は幕府内の知り合いから勧められたことをきっかけに、寛政十二年以前のように銀貨に関する仕事を作右衛門家との間で二分することを望むようになった。作右衛門はすぐに手代を結束させ長左衛門に翻意を促すが聞き入れられず、互いに幕府内の知り合いを利用して御家騒動を繰り広げた。結局、銀座の仲介により収められたこの事件は、貨幣の発行が世襲されていた特権商人により請け負われていた時代を象徴するものであり、登場人物の詳細な描写は当時の貨幣政策の生々しい現場を明らかにした。 |