学位論文要旨



No 113136
著者(漢字) 菊地,達也
著者(英字)
著者(カナ) キクチ,タツヤ
標題(和) イスマーイール派の神話と哲学 : ハミードゥッディーン・キルマーニーの思想を中心として
標題(洋)
報告番号 113136
報告番号 甲13136
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第203号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 竹下,政孝
 東京大学 教授 鎌田,繁
 東京大学 助教授 柳橋,博之
 桜美林大学 教授 中村,廣治郎
 東海大学 教授 菟原,卓
内容要旨

 9世紀末に突如として歴史の表舞台に姿を現したイスマーイール派は、急速に勢力を拡大させ、910年にはファーティマ朝という独自の王朝を樹立するに到った。彼らは、第7代イマーム・ムハンマド・イブン=イスマーイールがいずれ第7告知者カーイムとして姿を現し、シャリーアを廃棄し、この地上に終末と救済をもたらすと考えていた。キヤーマが近いということを宣言することによって、イスマーイール派はメシア運動としての求心力を増大させたのである。

 ファーティマ朝は、10世紀の後半にはエジプトを征服したが、思想的難問を抱えることにもなった。ファーティマ朝の頂点に立つイマームは、ムハンマド・イブン=イスマーイールの子孫であると自称していたが、そうであるならば、ムハンマド・イブン=イスマーイールはカーイムではなくなっていまい、その後もイマームが連続してしまったことになる。早急なる終末の実現の約束しつつも、ファーティマ朝イマームは地上に終末をもたらすことはできなかった。このようなファーティマ朝の現実を説明し、その宇宙的な正統性を証明しようとしたのが、本論で主に取り扱うキルマーニーである。

 本論はファーティマ朝の正統教義としてのキルマーニー思想を解き明かすことを主要な目的としているが、その前にキルマーニー以前のイスマーイール派の思想史的展開について考察しておかなければならない。H.ハルムは、10-11世紀のイスマーイール派の宇宙論においては神話から哲学への移行があり、そのような傾向はキルマーニーによって頂点に達した、と考えている。また、D.デ・スメットは、神話と哲学はそれぞれバーティン、ザーヒルという形で並存していたと考えた。デ・スメットによれば、哲学的な色彩が強いキルマーニーの思想にもグノーシス的神話が隠されていたということになる。

 筆者は、神話と哲学は、共に宇宙論的レベルから終末論を説明するという機能を持っていたと考える。キヤーマを補完する宇宙論においては、超越神によるデミウルゴスの創造によって宇宙が始まる。その過程で生まれた天上的存在者は、何らかの形で過ちを犯す。この過ちによって天上的存在者は転落し、その結果としてこの地上世界が成立する。天上的存在者が原初の状態に戻るためには、地上におけるイスマーイール派宣教組織の活動が不可欠である。ここにおいて、7つのサイクルからなる人類史は天上世界の動向に密接な関係を持つ。一つのサイクルが完了する度に、転落者は元の位階に向かって一つずつ位階を上昇することになる。カーイムが出現する時に、人類史は完成に至り、転落者は元の位階に復帰することになる。

 このような宇宙論構造は、神話的教義と哲学的教義の双方に見受けられる。このような視点に立てば神話と哲学との間には本質的な差異は存在しなかったのである。イスマーイール派の神話と哲学は、人類の歴史の終わりでもあるキヤーマを宇宙的レベルから説明し、宇宙的正統性を与える。宇宙的レベルにまで高められたキヤーマは、その劇的な性格を増幅させることになる。また、イスマーイール派信徒は、自分が存在する宇宙的な意味を獲得することになる。このように、宇宙的神話は政治的・宗教的イデオロギーの補完物となる。

 キルマーニーは、哲学者ファーラービーの思想を取り入れ、イスマーイール派の宇宙論をその枠内で再構成した。従来のイスマーイール派思想と同様に、絶対的超越神とデミウルゴスが、キルマーニーの宇宙論には存在する。このデミウルゴスに相当する第一知性は、哲学的な神とコーラン的な神の両方の性格を持ち合わせている。第一知性からは段階的に離在知性が流出し、十知性のプレローマが形成される。デ・スメットとは違い、筆者は、キルマーニーの十知性の世界には過ちや転落といった神話的要素は存在せず、静的な秩序が重視されていると考える。ファーティマ朝宣教組織の十の位階は、十知性の世界に照応することによって、宇宙的な正統性を獲得する。

 キルマーニーは、キヤーマによって人間知性は現実化し宇宙は完成すると考えたが、それによる転落者の位階復帰という神話的テーマを排除している。さらに、キルマーニーはキヤーマ到来の日を遠い未来へと先送りし、その時までファーティマ朝イマームの支配は続くと考えた。真の知識を持つ唯一の人間であるイマームに服従し、その教示を受けることによってのみ、人間霊魂は知性の現実化という形での救済を得ることができる。キルマーニーはイマームの永続的支配を保証しつつ、救済論の観点からイマームの権威を強化する。先送りされた終末の日まで、複数世界に照応する宣教組織の静的秩序が重視されることになり、早急なる終末とシャリーアの廃棄を求める極端派的な立場は排除されることになる。キヤーマは既成の秩序の破壊を意味するものではなくなり、現状の秩序とイマームの正統性を保証する理論に変質した。キルマーニーの思想は、地上において救済を先取りした千年王国としての性格をファーティマ朝に与え、メシア運動として始まった宗教運動を現実的な国家へと移行させるようとする試みでもあった。

審査要旨

 本論文は、10-11世紀のイスマーイール派の思想家キルマーニーの思想を、彼の主著である『知性の安息』に基づいて分析し、彼の思想を彼以前のイスマーイール派の終末思想、及び彼以降のイスマーイール派(アラムートのニザール派、イエメンのタイイブ派)の終末思想と比較することによって、キルマーニー思想をファーティマ朝支配を正当化する現状秩序維持のイデオロギーであることを明らかにしたものである。本文は序章と3章と結論からなる。

 序章では、イスマーイール派思想の研究史が概括され、特に先行するキルマーニー研究の弱点が指摘されるとともに、イスマーイール派の歴史が、その起源からファーティマ朝の成立を経て、キルマーニーの時代に至るまで論じられる。

 第1章では、イスマーイール派の運動に一貫して流れる思想的コアが終末論であるとみなされ、キルマーニーの時代までのイスマーイール派運動が概括される。さらに、アブー・イーサー・ムルシド、スィジスターニー、スーリー、アラムート・ニザール派、イエメン・タイイブ派の宇宙論が分析され、それらに共通する「天上界の反抗者の転落と復帰」という神話構造が明らかにされ、この神話こそがイスマーイール派の終末論を支えるものであったと論じられる。

 第2章では、キルマーニーの哲学的宇宙論が、彼に強く影響を与えたファーラービーとスィジスターニーとの比較で論じられ、キルマーニーの宇宙論には、第1章で明らかにされたような神話的要素が存在しないことが指摘される。

 第3章では、第2章の宇宙論に対応する形での、キルマーニーの宗教的教説が論じられ、ファーティマ朝の宣教組織・位階秩序が、静的な宇宙論によって正当化され、位階の頂点に立つイマームのカリスマも強化されていることが明らかにされる。

 本論文はキルマーニーの思想をファーティマ朝の正統的イデオロギーと捉え、特に終末論の神話的構造に注目して、キルマーニーのイスマーイール派思想史における位置を明らかにしている点で、従来の研究にはない斬新さが認められ、イスマーイール派思想研究を一歩進めるものとして高く評価できる。

 但し、アッバース朝カリフの正統性への挑戦という、もう一つのイスマーイール派の政治的イデオロギーを無視し、終末論だけを強調しすぎたために、イスマーイール派の運動を「持たざる者」の革命運動として断定してしまうなど、歴史的分析に甘さが残るし、個々のテキストの解釈にも、問題とすべき点がいくつか残されている。とはいえ、これらは本論文の価値を決定的に損なうものではない。

 以上により、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するものと判定する。

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