ATPはエネルギー代謝の中核であると同時に、細胞外に遊離され、その代謝物であるアデノシン(Ado)と同様にプリン受容体を介して情報伝達物質として働く。さらに、脳虚血時にATPが細胞外に遊離されること、Adoが虚血性神経細胞死を抑制することなど、神経細胞死に対するプリン化合物の関与が示唆されているが、その役割は未だ明確になっていない。本論文は、中枢神経細胞のアポトーシスに対するプリン受容体作動薬の作用を、ペプチド性神経栄養因子である塩基性線維芽細胞成長因子(bFGF)と比較しつつ、検討したものである。 高カリウム(K+,25mM)培地中で7-8日間培養した小脳顆粒細胞を生理的濃度のK+(5mM)培地に暴露すると細胞死が誘発された。この過程においてDNAの断片化が観察され、タンパク合成の必要性が認められたことから、この神経細胞死はアポトーシスであることが示唆された。低K+暴露と同時にAdo、ATPを培地に添加することで、この神経細胞死は抑制された。これに対し、bFGFは同様に抗アポトーシス作用を持つが、より強力な作用の発現には前処理(24時間)が必要であり、新規のタンパク合成が関与していることが明らかとなった。さらに、低K+培地暴露によって引き起こされ、アポトーシスの特徴でもある細胞体萎縮、神経線維変性、核凝縮などの形態変化や前述のDNAの断片化に対してAdo、ATPおよびbFGFは抑制作用を示した。これらの結果から、Ado、ATPおよびbFGFが小脳顆粒細胞のアポトーシスを抑制することが明らかとなった。 低K+培地暴露による培養小脳顆粒細胞のアポトーシスは細胞内カルシウム(Ca2+)濃度([Ca2+]i)の低下が引き金となっていることが示唆されている。この[Ca2+]iの低下に対しATPおよびbFGFは全く影響を及ぼさなかった。これに対し、Adoは[Ca2+]iの低下を有意に抑制したが、その[Ca2+]iレベルは小脳顆粒細胞の生存維持には不十分なものであった。以上の結果より、Ado、ATPおよびbFGFの抗アポトーシス作用が[Ca2+]iの維持による可能性は低いものと考えられた。 細胞外のAdoおよびATPはプリン受容体を介して作用すると考えられている。そこで、AdoおよびATPの抗アポトーシス作用におけるプリン受容体の関与を検討した。その結果、AdoはA2b受容体を介し、cAMP-protein kinase A経路を活性化して、ATPはP2Y受容体を介し、phospholipase C-protein kinase C(PKC)経路を活性化して抗アポトーシス作用を発揮していることが明らかとなった。また、bFGFの作用にはFGF受容体tyrosine kinase-PKC経路の活性化が関与していることが示唆された。 ATPおよびbFGFがPKCを介してアポトーシスを抑制してることが示唆されたことから、これら2つの薬物が共通の機序を持つ可能性が示唆された。そこで、更なる検討を加えた結果、小脳顆粒細胞においてbFGFおよびATPによりMAP kinaseの顕著な活性化が認められること、両薬物の抗アポトーシス作用がMEK阻害剤によって有意に抑制されることからMAP kinase cascadeの関与が示唆された。また、ATPとbFGFには相加作用が認められたことから、MAP kinase活性化に異なる分子が関与する可能性が考えられた。そこでRasのfarnesyl化の関与を検討したところ、farnesyl化阻害剤によってbFGFの作用は減弱したが、ATPの作用は影響を受けなかった。以上の結果から、bFGFはRasを介して、またATPはRas非依存的にMAP kinaseを活性化しアポトーシスを抑制していることが示唆された。 以上、本研究によりプリン受容体作動薬であるAdo、ATP、およびペプチド性神経栄養因子であるbFGFが、それぞれ異なったメカニズムで小脳顆粒細胞のアポトーシスを抑制することが初めて明らかになった。Ado、ATPといった低分子量性の物質が脳神経細胞のアポトーシスに対して保護作用を発揮するという今回の新しい知見は、アポトーシスの関与する神経疾患に対する治療薬の開発に新次元を提供するものであると考えられ、博士(薬学)の学位を授与するに値するものと認めた。 |