学位論文要旨



No 112866
著者(漢字) 網野,宏行
著者(英字)
著者(カナ) アミノ,ヒロユキ
標題(和) 小脳顆粒細胞のアポトーシスに対するプリン受容体作動薬の抑制作用 : ペプチド性神経栄養因子bFGFとの比較
標題(洋)
報告番号 112866
報告番号 甲12866
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第777号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 齋藤,洋
 東京大学 教授 桐野,豊
 東京大学 助教授 岩坪,威
 東京大学 助教授 漆谷,徹郎
 東京大学 助教授 松木,則夫
内容要旨

 ATPはエネルギー代謝の中核であると同時に、細胞外に遊離され、その代謝物であるアデノシン(Ado)と同様にプリン受容体を介して情報伝達物質として働く。さらに、脳虚血時にATPが細胞外に遊離されること、Adoが虚血性神経細胞死を抑制することなど、神経細胞死に対するプリン化合物の関与が示唆されている。

 アポトーシスによる神経細胞死は、発生過程の神経細胞間ネットワーク形成に重要な役割を演じているだけでなく、様々な神経疾患や脳の老化とも深く関わっている可能性が指摘されており、その防御手段の確立は重要なテーマである。これまで様々な実験系においてアポトーシスを抑制する物質が報告されてきたが、それらは高分子量のペプチド性神経栄養因子が中心であり、神経疾患に対する治療薬を開発する事は非常に困難であると考えられる。そこで、神経細胞のアポトーシスを抑制する事のできる、より臨床応用の可能性が高いと思われる低分子量性物質の探索を行った。その結果、プリン受容体作動薬のAdoおよびATPが中枢神経細胞のin vitroアポトーシスモデルの1つである低カリウム(K+)培地暴露による小脳顆粒細胞死を抑制することを初めて見いだした。さらに、私が以前に発見した塩基性線維芽細胞成長因子(bFGF)の抗アポトーシス作用を含め、これらの物質の薬理作用機序を細胞内情報伝達系を中心に比較・検討した。

1低K+培地暴露による小脳顆粒細胞のアポトーシスに対するAdo、ATPおよびbFGFの作用

 小脳顆粒細胞はin vitroにおいて、その生育に高濃度のK+を要求することが知られている。生後8日齢のWistar系ラットより単離した小脳顆粒細胞をまず高K+(25mM)培地中で7-8日培養した後、生理的濃度のK+(5.mM)培地に交換すると経時的な乳酸脱水素酵素(LDH)の漏出、すなわち細胞死が観察された(Fig.1)。この過程においてDNAの断片化が観察され、タンパク合成の必要性が認められたことから、この神経細胞死はアポトーシスであることが示唆された。低K+暴露と同時にAdo、ATPを培地に添加することで、この神経細胞死は抑制され(Fig.1)、その作用は濃度依存的であった。これに対し、bFGFは同様に濃度依存的な抗アポトーシス作用を持つが、より強力な作用の発現には前処理(24時間)が必要であった。さらに、低K+培地暴露によって引き起こされ、アポトーシスの特徴でもある細胞体萎縮、神経線維変性、核凝縮などの形態変化に対してもAdo、ATPおよびbFGFは抑制作用を示した。前述のDNAの断片化も、これらの薬物が濃度依存的に抑制することがアガロースゲル電気泳動(Fig.2)およびTUNEL染色によって明らかとなった。これらの結果から、Ado、ATPおよびbFGFが小脳顆粒細胞のアポトーシスを抑制することが示された。

Fig.1 Preventive effect of adenosine,ATP and bFGF on low K+-induced apoptosis in cerebellar granul neurons.Neurons were exposed to low K+ medium with or without adenoine(■),ATP(▼)or bFGF(▲).At the indicated times after lowering K+,neuronal death was determined by the LDH assay.Adenosine (1 mM)and ATP (1 mM)were added to culture medium simultaneously with low K+ exposure,and bFGF(10ng/ml)was added 24 hours prior and during exposure.Control neurons(○)were maintained in high K+ medium.Values are repreented as the mean ±S.D.(n=4).Fig.2 Adenosine,ATP(A)and bFGF(B) inhibit the DNA fragmentation following replacement to low K medium in cerebellar granule neurons.DNA was extracted from neurons 30 hours after onset of lowering K.Purified DNA was electrophoresed in 2% agarose gel.Drugs were added to culture medium as described in Fig.1.
2Ado、ATPおよびbFGFの抗アポトーシス作用の機序

 細胞外のAdoおよびATPはそれぞれP1、P2プリン受容体を介して作用すると考えられている。現在P1プリン受容体は、Gi共役型のA1、A3およびGs共役型のA2a、A2bサブタイプに、P2プリン受容体は、イオンチャネル型のP2XおよびGタンパク共役型のP2Yサブタイプに分類されている。そこで、AdoおよびATPの抗アポトーシス作用にどの受容体サブタイプが関与しているのかを薬理学的に検討し、さらに細胞内情報伝達系についても検討を加えた。また、bFGFについても同様の検討を行った。

 (1)Ado:Adoの抗アポトーシス作用がAdo取り込み阻害剤のNBTIによって阻害されなかったことから、Adoは細胞外で作用しているものと考えられた。A1/A2受容体アゴニストNECAによって低K+暴露によるアポトーシスは有意に抑制されたが、A1受容体アゴニストCPAおよびA3受容体アゴニストAPNEA、そしてA2a受容体アゴニストCGS21680は抑制しなかった(Fig.3A)。また、Adoの抗アポトーシス作用はA2受容体アンタゴニストDMPXによっては有意に抑制されたが、A1受容体アンタゴニストDPCPXによっては影響を受けなかった(Fig.3B)。現在のところA2b受容体に対して選択的なアゴニストおよびアンタゴニストがないためこれ以上の検討はできなかったが、これらのことから、AdoはA2b受容体または未知のA2受容体サブタイプを介してアポトーシスを抑制することが示唆された。A2b受容体はadenylate cyclaseを介して細胞内cAMP濃度([cAMP]i)を増加させることが知られている。また、forskolinやcAMPアナログによって[cAMP]iを上昇させることでこのアポトーシスが抑制されることが報告されている。そこで、Adoの[cAMP]iに対する作用を検討したところ、Adoは濃度依存的に[cAMP]iを増加させ、さらにAdoの抗アポトーシス作用はPKA阻害剤KT-5720によって抑制された。これらの結果から、AdoはcAMP-PKA経路を介して小脳顆粒細胞のアポトーシスを抑制しているものと考えられ、またこのことからもAdoの作用にA2b受容体が関与していることが示唆された。

Fig.3 Adenosine prevents the neuronal apoptosis via A2b receptor.(A)A2b(NECA;○),but not A1(CPA;●),A2a(CGS-21680;□)nor A3(APNEA;■)rcceptor agonist,prevented low K+-induced apoptosis.(B)A2 receptor antagonist DMPX(50M;■),but not A1 receptor antagonist DPCPX(1M;□),attenuateed anti-apoptotic action of adenosine(●).Neuronal death was determined by the LDH assay 30 hr after replacement to low K+ medium.Values are represented as the mean ±S.D.(n=4).

 (2)ATP:ATPの抗アポトーシス作用は非水解性アナログであるATTPSによっても模倣された。このことから、ATPがAdoに加水分解されて細胞死を抑制する可能性は否定された。P2受容体アゴニストの効力は、2-methylthio ATP>ATP=ADP>,-methylene ATP≫UTPの順であった(Fig.4A)。また、ATPの抗アポトーシス作用はP2Y受容体アンタゴニストであるreactive blue 2によって抑制されたが、P2X受容体アンタゴニストPPADSによっては阻害されなかった(Fig.4B)。さらにATPの作用にはPTX非感受性G-proteinの関与が認められた。これらの結果から、ATPの抗アポトーシス作用はP2Y受容体を介した作用と考えられた。次に、ATPの作用に関与する細胞内情報伝達系について薬理学的検討を行ったところ、PKC阻害剤calphostinCおよびPLC阻害剤U-73122によってATPの作用はほぼ完全に抑制されたが、PKA、CaMKII、PI-3 Kinase、S6-Kinaseの阻害剤によっては影響を受けなかった。さらに、ATPには〔cAMP〕iを上昇させる作用は認められなかった。これらの結果から、ATPはPLC-PKC経路を介してアポトーシスを抑制することが示唆された。ATPによりP2Y受容体が活性化されるとこのPLC-PKC経路が活性化されることが知られており、これらの結果はATPの抗アポトーシス作用にP2Y受容体が関与していることをさらに強く支持しているもの考えられる。

Fig.4 P2Y receptor mediates the anti-apoptotic effect of ATP.(A)The rank of potency of P2 receptor agonists to block the low K+-induced apoptosis.The rank of potency was as follows:2-methylthio ATP(□)>ATP(○)=ADP(●)>,-methylene ATP(▲)≫UTP(△).(B)P2Y receptor antagonist reactive blue 2(10mM;▲),but not P2x receptor antagonist PPADS (30mM;△),diminished the anti-apoptotic action of ATP(●).Neuronal death was determined by the LDH assay 30 hr after replacement to low K+ medium.Values are represented as the mean ±S.D.(n=4).

 (3)bFGF:1.で述べたようにbFGFが抗アポトーシス作用を示すには前処理が必要であった。さらにbFGFの作用がactinomycinDやcycloheximideの共添加により抑制されたことから、新たなタンパク合成を介したものであることが示唆された。次に、bFGFの作用に関与する細胞内情報伝達系について検討した。bFGFの細胞死抑制作用はTK阻害剤genisteinおよび前述のcalphostin Cによって有意に阻害された。さらに、高濃度のPMAによってPKCをdown-regulateすることによってもbFGFの作用は抑制された。しかしPKA、CaMKII、PI-3 Kinase、S6-Kinaseの阻害剤はbFGFの作用に影響を与えなかった。また、bFGFにも〔cAMP〕iを上昇させる作用は認められなかった。これらの結果から、bFGFはFGF受容体TK-PKC経路を介してアポトーシスを抑制することが示唆された。

3細胞内カルシウム濃度の変動に対するAdo、ATPおよびbFGFの作用

 高K+培地による培養小脳顆粒細胞の生存維持効果は電位依存性カルシウム(Ca2+)チャネルを介した細胞内へのCa2+の流入によることが示唆されている。そこで、低K+培地に暴露したときの細胞内Ca2+濃度([Ca2+]i)の変動をFura-2法で検討した。灌流液のK+濃度を25mMから5mMにすることで[Ca2+]iは高K+時の56%に低下した。ATPおよびbFGFは低K+暴露による[Ca2+]iの低下に全く影響を及ぼさなかったが、Adoはこれを有意に抑制し、[Ca2+]iは高K+時の70%であった。しかし、この[Ca2+]iレベルでは小脳顆粒細胞の生存をほとんど維持できないことから、Ado、ATPおよびbFGFの抗アポトーシス作用が[Ca2+]iの維持による可能性は低いものと考えられた。

4ATPおよびbFGFの抗アポトーシス作用におけるMAP kinase cascadeの関与

 ATPおよびbFGFがPKCを介してアポトーシスを抑制してることが示唆されたことから、これら2つの薬物が共通の機序を持つ可能性が示唆された。MAP kinase cascadeは細胞の増殖・成長などに関わる情報伝達系の重要な要素であり、bFGFの様なペプチド性細胞成長因子およびATP受容体のようなGタンパク共役型受容体からの細胞内情報を核に伝達し、転写因子を誘導する。そこでbFGFおよびATPの抗アポトーシス作用にこのMAP kinase cascadeが関与しているかどうかを検討した。その結果、小脳顆粒細胞においてbFGFおよびATPによりMAP kinaseの顕著な活性化が認められ、両薬物の抗アポトーシス作用はMEK阻害剤PD98059によって有意に抑制された(Fig.5A)。また、ATPとbFGFには相加作用が認められたことから、MAP kinase活性化に異なる分子が関与する可能性が考えられた。そこでRasのfamesyl化の関与を検討したところ、famesyl化阻害剤AFCによってbFGFの作用は減弱したが、ATPの作用は影響を受けなかった(Fig.5B)。これらのことから、bFGFはRasを介して、またATPはRas非依存的にMAP kinaseを活性化してアポトーシスを抑制していることが示唆された。

Fig.5 Involvement of MAP kinase cascade in bFGF- and ATP-mediated neuroprotectice effect against low K+-induced apoptosis.Neurons were exposed to low K+ medium with or without PD98059 or AFC.ATP(1mM)was added to culture medium simultaneously with exposure,and bFGF(10 ng/ml)was added 24 hours prior and during exposure.Control neurons weremaintained in high K+ medium.Neuronal death was determined by the LDH assay 30 hr after replacement to low K+ medium.Values are represented as the mean ±S.D.(n=4).
【まとめ】

 本研究において私は、プリン受容体作動薬であるAdo、ATP、およびペプチド性神経栄養因子であるbFGFが、それぞれ異なったメカニズムで小脳顆粒細胞のアポトーシスを抑制することを初めて明らかにした。Ado、ATPといった低分子量性の物質が脳神経細胞のアポトーシスに対して保護作用を発揮するという今回の新しい知見は、アポトーシスの関与する神経疾患に対する治療薬の開発に新次元を提供するものであろう。

審査要旨

 ATPはエネルギー代謝の中核であると同時に、細胞外に遊離され、その代謝物であるアデノシン(Ado)と同様にプリン受容体を介して情報伝達物質として働く。さらに、脳虚血時にATPが細胞外に遊離されること、Adoが虚血性神経細胞死を抑制することなど、神経細胞死に対するプリン化合物の関与が示唆されているが、その役割は未だ明確になっていない。本論文は、中枢神経細胞のアポトーシスに対するプリン受容体作動薬の作用を、ペプチド性神経栄養因子である塩基性線維芽細胞成長因子(bFGF)と比較しつつ、検討したものである。

 高カリウム(K+,25mM)培地中で7-8日間培養した小脳顆粒細胞を生理的濃度のK+(5mM)培地に暴露すると細胞死が誘発された。この過程においてDNAの断片化が観察され、タンパク合成の必要性が認められたことから、この神経細胞死はアポトーシスであることが示唆された。低K+暴露と同時にAdo、ATPを培地に添加することで、この神経細胞死は抑制された。これに対し、bFGFは同様に抗アポトーシス作用を持つが、より強力な作用の発現には前処理(24時間)が必要であり、新規のタンパク合成が関与していることが明らかとなった。さらに、低K+培地暴露によって引き起こされ、アポトーシスの特徴でもある細胞体萎縮、神経線維変性、核凝縮などの形態変化や前述のDNAの断片化に対してAdo、ATPおよびbFGFは抑制作用を示した。これらの結果から、Ado、ATPおよびbFGFが小脳顆粒細胞のアポトーシスを抑制することが明らかとなった。

 低K+培地暴露による培養小脳顆粒細胞のアポトーシスは細胞内カルシウム(Ca2+)濃度([Ca2+]i)の低下が引き金となっていることが示唆されている。この[Ca2+]iの低下に対しATPおよびbFGFは全く影響を及ぼさなかった。これに対し、Adoは[Ca2+]iの低下を有意に抑制したが、その[Ca2+]iレベルは小脳顆粒細胞の生存維持には不十分なものであった。以上の結果より、Ado、ATPおよびbFGFの抗アポトーシス作用が[Ca2+]iの維持による可能性は低いものと考えられた。

 細胞外のAdoおよびATPはプリン受容体を介して作用すると考えられている。そこで、AdoおよびATPの抗アポトーシス作用におけるプリン受容体の関与を検討した。その結果、AdoはA2b受容体を介し、cAMP-protein kinase A経路を活性化して、ATPはP2Y受容体を介し、phospholipase C-protein kinase C(PKC)経路を活性化して抗アポトーシス作用を発揮していることが明らかとなった。また、bFGFの作用にはFGF受容体tyrosine kinase-PKC経路の活性化が関与していることが示唆された。

 ATPおよびbFGFがPKCを介してアポトーシスを抑制してることが示唆されたことから、これら2つの薬物が共通の機序を持つ可能性が示唆された。そこで、更なる検討を加えた結果、小脳顆粒細胞においてbFGFおよびATPによりMAP kinaseの顕著な活性化が認められること、両薬物の抗アポトーシス作用がMEK阻害剤によって有意に抑制されることからMAP kinase cascadeの関与が示唆された。また、ATPとbFGFには相加作用が認められたことから、MAP kinase活性化に異なる分子が関与する可能性が考えられた。そこでRasのfarnesyl化の関与を検討したところ、farnesyl化阻害剤によってbFGFの作用は減弱したが、ATPの作用は影響を受けなかった。以上の結果から、bFGFはRasを介して、またATPはRas非依存的にMAP kinaseを活性化しアポトーシスを抑制していることが示唆された。

 以上、本研究によりプリン受容体作動薬であるAdo、ATP、およびペプチド性神経栄養因子であるbFGFが、それぞれ異なったメカニズムで小脳顆粒細胞のアポトーシスを抑制することが初めて明らかになった。Ado、ATPといった低分子量性の物質が脳神経細胞のアポトーシスに対して保護作用を発揮するという今回の新しい知見は、アポトーシスの関与する神経疾患に対する治療薬の開発に新次元を提供するものであると考えられ、博士(薬学)の学位を授与するに値するものと認めた。

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