学位論文要旨



No 112752
著者(漢字) 溝口,康
著者(英字)
著者(カナ) ミゾグチ,ヤスシ
標題(和) プロラクチン受容体を介した乳腺細胞の時期特異的分化誘導調節機構の解析
標題(洋)
報告番号 112752
報告番号 甲12752
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1815号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 酒井,仙吉
 東京大学 教授 舘,鄰
 東京大学 助教授 東條,英昭
 東京大学 助教授 塩田,邦郎
 東京大学 助教授 九郎丸,正道
内容要旨

 泌乳は乳腺において最終的な分化機能の過程で起こる現象である。プロラクチンは乳腺の発育と分化に密接に関係している。特にミルクの合成にプロラクチンが必要である。プロラクチンが作用するには乳腺細胞に存在する受容体に結合しなければならない。全ての動物で分娩後乳腺へのプロラクチン結合は増加する。その原因として、分娩に伴って消失する胎盤から分泌されるラクトジェンによるmasking効果の解除と、プロラクチン受容体の増加が考えられる。前者は分娩後プロラクチン受容体の増加が必ずしも必要ではないとする考えであり、後者はプロラクチン受容体が新しく合成されるとする考えである。このため分娩時におけるプロラクチン受容体の遺伝子発現レベルの動態を調べることが重要であると考えた。プロラクチン受容体には分子量の異なる2種類のものが存在する。近年プロラクチン受容体のcDNAが様々な種でクローニングされ、ロングタイプとショートタイプの少なくとも2種類が存在することが明らかとなった。プロラクチン受容体の遺伝子は一つであり、選択的スプライシングにより調節されている。特にミルクタンパクの合成は、ロングタイプのプロラクチン受容体を介して調節されている。

 本論文は乳腺の分化誘導機構を解明するため、発情周期・妊娠期・泌乳期のプロラクチン受容体遺伝子の発現調節機構について行った。動物は、ICRマウスを用いた。60から70日齢の雌マウスを雄マウスと同居させ、毎朝腟栓の有無を観察した。腟栓が認められた日を妊娠0日とし、分娩した日を泌乳0日とした。

 第1章は、PRL-RmRNA量の測定方法を述べた。RNAは、グアニジン酸-フェノール-クロロフォルム法で抽出し、相補DNAを合成するためランダムプライマーを用いて、逆転写反応を行った。競合的PCRに用いるコンペティターDNAは外来遺伝子が挿入されており、共通のプライマーを使用するため両者の間で奪い合いが起こり二つの量比に対応してPCR産物の比率が変化することを利用し、既知のコンペティターDNA量からmRNAを測定する方法である。本方法の利点は、微量のRNA量で定量出来ること、また、同一のプライマーを用いるため増幅効率が一定であることである。また、ミルクタンパクの一種である-カゼインのmRNAの測定法も同様にして確立した。

 第2章は、乳腺の分化誘導機構を解明する第一段階として、妊娠期及び泌乳期のプロラクチン受容体mRNA量の動態について述べた。ロングタイプのプロラクチン受容体mRNAは、乳腺において優位に発現し大きく変化していた。ショートタイプのプロラクチン受容体mRNAも存在していたが、その量はわずかでほとんど変化しなかった。妊娠0日のプロラクチン受容体遺伝子発現が最も高く、その後妊娠初期で減少し、妊娠中期で最も低くなった。この時期の乳腺妊娠末期から増加し始めた。その量は泌乳0日でピークとなり、その後除々に減少した。

 第3章は、妊娠初期に起こるプロラクチン受容体mRNA量の減少する原因について述べた。発情周期中、ロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量は、発情期がピークとなる一定の周期で変化した。妊娠が成立するとその周期は失われ、妊娠初期に減少した。妊娠初期に卵巣除去するとロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量は、偽手術群に比べて有意に増加した。このことから、この時期にプロラクチン受容体mRNA量を抑制する物質が卵巣から分泌されていることを示唆した。妊娠2日で卵巣を除去し、プロジェステロンを投与するとその量は有意に減少した。一方エストロジェンまたはプロラクチンを投与するとその量は増加した。またエストロジェンまたはプロラクチンと同時にプロジェステロンを投与すると、その量は減少した。血中プロジェステロン濃度は妊娠2日から増加する。こうしたことから妊娠初期のプロラクチン受容体mRNA量の減少は、プロジェステロンによると結論した。

 妊娠0日のロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量は最も高いが、泌乳は起こらない。泌乳は分娩後に起こる。また妊娠中期のプロラクチン受容体遺伝子発現は低い。マウスやラットでは妊娠中期以降で卵巣を除去すると、乳腺細胞へのプロラクチン結合は増加し泌乳が開始する。このモデルは人工的に泌乳を誘起出来るため、分娩前の経時的変化の動態を知る上で非常に有効なモデルである。

 第4章は、妊娠12日に卵巣除去し、プロラクチン受容体遺伝子発現の動態及びその調節機構について述べた。流産は卵巣除去後22時間で起こった。ロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量は、卵巣除去後8時間から増加が起こった。また-カゼインmRNA量も同様のパターンで増加した。即ち両者のmRNA量は流産前に増加した。-カゼインmRNA量は卵巣除去後8時間から16時間で増加し、32時間まで高いレベルを維持した。一方ロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量は卵巣除去後16時間をピークに減少した。卵巣除去24時間で里子を付けると、ロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量は減少したが、-カゼインmRNA量は高レベルを維持した。このことから流産前に起こるロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量は、一過性の増加であると考えた。流産前に起こるロングタイプのプロラクチン受容体mRNA発現の調節機構を明らかにするため、卵巣除去及び卵巣と副腎除去し、プロジェステロンまたはコルチゾールを投与し、その影響を調べた。プロジェステロンは、ロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量の増加を有意に抑制した。卵巣と副腎除去してもその増加を抑制したが、コルチゾールを投与するとその量は回復した。また、血中プロジェステロン濃度は卵巣除去後2時間で急激に減少し、血中コルチコステロン濃度は卵巣除去後8時間がピークとなる一過性の増加が起こった。こうしたことから、流産前に起こるロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量の増加は、プロジェステロンの減少により抑制が解除され、糖質コルチコイドが作用し、活性化されると考察した。

 第5章は、実際の分娩前後での調節機構を明らかにすることは重要なことであると考え、妊娠17日から泌乳2日までのプロラクチン受容体mRNA量の動態とその役割について述べた。ロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量は妊娠末期まで低いレベルであったが、分娩前日の妊娠18日1000と2200の間で有意に増加した。即ち自然分娩においても、分娩前にロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量の増加が起こった。血中プロジェステロン濃度は妊娠17日1000から除々に減少し、一方血中コルチコステロン濃度は、妊娠18日2200がピークとなる一過性の増加を示した。分娩前に起こるロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量の増加の機構を明らかにするため、妊娠17日の乳腺を24時間器官培養し、インシュリン,コルチコステロン,プロラクチン,胎盤性ラクトジェンを組み合わせ、その影響を調べた。ロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量を有意に増加させたのは、インシュリン+コルチコステロン+胎盤性ラクトジェンの群であった。胎盤性ラクトジェンは、ロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量を増加させることが明らかとなった。一方-カゼインmRNA量は、分娩後の泌乳1日から増加が起こった。また泌乳0日の乳汁タンパク中に、-カゼインは検出されず泌乳4日から検出された。しかし、その他のカゼインは泌乳0日から検出された。このことから-カゼインは分娩後に起こる-カゼインmRNA量の増加に伴い、合成されることを示唆した。

 妊娠中期卵巣除去モデルにおいて、カゼイン遺伝子発現はプロラクチン受容体遺伝子発現と同様に流産前に起こった。一方自然分娩ではプロラクチン受容体遺伝子発現が分娩前に起こったのに対し、-カゼイン遺伝子及び乳汁への分泌は分娩後に起こった。また泌乳0日の乳汁タンパクの解析から、-カゼインは他のカゼインと異なる動態を示した。こうした違いが何に起因しているのかは、現在のところ不明である。これを解明することは、泌乳生理学上における今後の重要な課題であると考えた。

 哺乳類の繁殖期は、発情周期・妊娠期・泌乳期の一連の周期を描いている。この期間中、乳腺のプロラクチン受容体遺伝子発現は、一定の周期を描いて変化した。乳腺の最終分化である泌乳は、分娩後に開始する。妊娠末期に起こるプロジェステロンの低下に伴い、プロラクチン受容体遺伝子発現は分娩に先立ち一過性の増加が起こった。本論文において、分娩直前に起こるプロラクチン受容体遺伝子の発現が、泌乳の開始には重要であると結論した。

審査要旨

 プロラクチンは下垂体前葉から分泌され、乳腺においては、細胞の増殖と分化及びミルクの合成等を調節するタンパク質ホルモンである。プロラクチンは乳腺に様々な作用を及ぼすが、ミルクタンパク質の合成に必須である。プロラクチンは乳腺に存在するプロラクチン受容体に結合しホルモン刺激を伝える。生理的あるいは内分泌環境の変化に対応して乳腺プロラクチン受容体数が変化する。特に、泌乳が始まる時点で急激に増加し、泌乳期間中は高いレベルに維持される。また、乳腺の発達段階でプロラクチン受容体を調節するのに必要なホルモンの種類が異なる。プロラクチン受容体の遺伝子についても研究が進んでいる。この遺伝子発現を調べることにより乳腺機能の調節機構を解明できる。本研究は、発達段階が異なる時期においてマウス乳腺プロラクチン受容体遺伝子発現を調べ、遺伝子発現に及ぼすホルモンの役割を明らかにすること、更に、プロラクチン受容体遺伝子発現により制御される乳腺機能との関係を明らかにすること、を目的としている。博士論文は以下の5章から成っている。

 第1章では、プロラクチン受容体遺伝子発現を調べるため、そのメッセンジャーRNA(以下、mRNA)量を正確に測定できるコンペティティブPCR法の構築について述べている。この目的のためプロラクチン受容体の相補DNAと長さの一部が異なるコンペティターDNAの作成を行った。プライマーの結合部位は共通である。既知量のコンペティターDNAを用いるため、相互のバンドの濃度を比較することによりmRNAを定量する方法を構築した。同様に、プロラクチンに反応して乳腺で特異的に作られるミルクタンパク質として分子量2.2万のカゼインについても同様な方法でコンペティティブPCR法を構築した。第2章から第5章に述べられている研究成果は、これらのアッセー法を用いて得られた。

 第2章では、妊娠開始から泌乳が停止するまでの期間における乳腺プロラクチン受容体mRNAおよびカゼインmRNAレベルの変化について述べている。妊娠中では、プロラクチン受容体mRNAは初期で減少し、末期まで増加しない。泌乳中では、初期に急激に増加し、末期に向かって減少する。カゼインmRNAにおいては泌乳初期から増加が始まり、泌乳最盛期で最大となる。乳腺の発達段階に応じ遺伝子発現のレベルで変化することを明らかにした。

 第3章では、発情周期中及び妊娠初期のプロラクチン受容体mRNAの制御機構について述べている。プロラクチン受容体mRNAを増加させるホルモンはエストロゲンとプロラクチンである。妊娠初期にプロラクチン受容体mRNAは減少する。この減少は卵巣から分泌されるプロゲステロンによることを明らかにした。プログスロンは前述した2つのホルモンの増加効果をも消失させた。この時期では高いプロラクチン受容体mRNAを有するにも係らず、カゼイン遺伝子は発現しなかった。

 第4章と第5章では、妊娠13日のマウスから卵巣を除去することにより起こる誘起泌乳および自然分娩により始まる正常泌乳の2つの実験系を用い、泌乳開始時のプロラクチン受容体mRNAの変化について述べている。自然分娩では分娩時間を推定することが不可能なため、分娩に先立って起こる変化の時間的経過を調べることが出来ない。一方、誘起泌乳では卵巣除去後23時間に流産が起こるため、分娩前に起こる反応を明らかに出来る。いずれの実験系においても流産あるいは分娩に先立ちプロラクチン受容体mRNAが有意に増加した。この増加はほぼ流産あるいは分娩10時間前から始まる事を示した。この時期、卵巣から分泌されるプロゲステロンの減少と副腎から分泌されるコルチコステロンの増加が起こる。このため、これら2種類のホルモンの血液中の変動を詳細に調べた。この結果、プロラクチン受容体mRNAの増加にプロゲステロンの減少は必要であるが、その増加に先立ち乳腺がコルチコステロンに数時間さらされる必要があることが明らかとなった。カゼイン遺伝子については分娩後に発現することを明らかにした。更にこの事実をミルクを分析しタンパク質レベルでも確認した。

 以上、本論文は、妊娠が成立する事によって始まる乳腺の機能変化をプロラクチン受容体とカゼインの両者のmRNAの変化を調べ、ミルク合成に必須のプロラクチン受容体遺伝子は分娩前から始まることを明らかにした。泌乳開始機構に新たな知見を加えた。特に、泌乳を開始する能力をプロラクチン受容体mRNAを調べることにより判定できるとする知見は学術上応用上、その意義は極めて高い。よって、審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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