泌乳は乳腺において最終的な分化機能の過程で起こる現象である。プロラクチンは乳腺の発育と分化に密接に関係している。特にミルクの合成にプロラクチンが必要である。プロラクチンが作用するには乳腺細胞に存在する受容体に結合しなければならない。全ての動物で分娩後乳腺へのプロラクチン結合は増加する。その原因として、分娩に伴って消失する胎盤から分泌されるラクトジェンによるmasking効果の解除と、プロラクチン受容体の増加が考えられる。前者は分娩後プロラクチン受容体の増加が必ずしも必要ではないとする考えであり、後者はプロラクチン受容体が新しく合成されるとする考えである。このため分娩時におけるプロラクチン受容体の遺伝子発現レベルの動態を調べることが重要であると考えた。プロラクチン受容体には分子量の異なる2種類のものが存在する。近年プロラクチン受容体のcDNAが様々な種でクローニングされ、ロングタイプとショートタイプの少なくとも2種類が存在することが明らかとなった。プロラクチン受容体の遺伝子は一つであり、選択的スプライシングにより調節されている。特にミルクタンパクの合成は、ロングタイプのプロラクチン受容体を介して調節されている。 本論文は乳腺の分化誘導機構を解明するため、発情周期・妊娠期・泌乳期のプロラクチン受容体遺伝子の発現調節機構について行った。動物は、ICRマウスを用いた。60から70日齢の雌マウスを雄マウスと同居させ、毎朝腟栓の有無を観察した。腟栓が認められた日を妊娠0日とし、分娩した日を泌乳0日とした。 第1章は、PRL-RmRNA量の測定方法を述べた。RNAは、グアニジン酸-フェノール-クロロフォルム法で抽出し、相補DNAを合成するためランダムプライマーを用いて、逆転写反応を行った。競合的PCRに用いるコンペティターDNAは外来遺伝子が挿入されており、共通のプライマーを使用するため両者の間で奪い合いが起こり二つの量比に対応してPCR産物の比率が変化することを利用し、既知のコンペティターDNA量からmRNAを測定する方法である。本方法の利点は、微量のRNA量で定量出来ること、また、同一のプライマーを用いるため増幅効率が一定であることである。また、ミルクタンパクの一種である-カゼインのmRNAの測定法も同様にして確立した。 第2章は、乳腺の分化誘導機構を解明する第一段階として、妊娠期及び泌乳期のプロラクチン受容体mRNA量の動態について述べた。ロングタイプのプロラクチン受容体mRNAは、乳腺において優位に発現し大きく変化していた。ショートタイプのプロラクチン受容体mRNAも存在していたが、その量はわずかでほとんど変化しなかった。妊娠0日のプロラクチン受容体遺伝子発現が最も高く、その後妊娠初期で減少し、妊娠中期で最も低くなった。この時期の乳腺妊娠末期から増加し始めた。その量は泌乳0日でピークとなり、その後除々に減少した。 第3章は、妊娠初期に起こるプロラクチン受容体mRNA量の減少する原因について述べた。発情周期中、ロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量は、発情期がピークとなる一定の周期で変化した。妊娠が成立するとその周期は失われ、妊娠初期に減少した。妊娠初期に卵巣除去するとロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量は、偽手術群に比べて有意に増加した。このことから、この時期にプロラクチン受容体mRNA量を抑制する物質が卵巣から分泌されていることを示唆した。妊娠2日で卵巣を除去し、プロジェステロンを投与するとその量は有意に減少した。一方エストロジェンまたはプロラクチンを投与するとその量は増加した。またエストロジェンまたはプロラクチンと同時にプロジェステロンを投与すると、その量は減少した。血中プロジェステロン濃度は妊娠2日から増加する。こうしたことから妊娠初期のプロラクチン受容体mRNA量の減少は、プロジェステロンによると結論した。 妊娠0日のロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量は最も高いが、泌乳は起こらない。泌乳は分娩後に起こる。また妊娠中期のプロラクチン受容体遺伝子発現は低い。マウスやラットでは妊娠中期以降で卵巣を除去すると、乳腺細胞へのプロラクチン結合は増加し泌乳が開始する。このモデルは人工的に泌乳を誘起出来るため、分娩前の経時的変化の動態を知る上で非常に有効なモデルである。 第4章は、妊娠12日に卵巣除去し、プロラクチン受容体遺伝子発現の動態及びその調節機構について述べた。流産は卵巣除去後22時間で起こった。ロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量は、卵巣除去後8時間から増加が起こった。また-カゼインmRNA量も同様のパターンで増加した。即ち両者のmRNA量は流産前に増加した。-カゼインmRNA量は卵巣除去後8時間から16時間で増加し、32時間まで高いレベルを維持した。一方ロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量は卵巣除去後16時間をピークに減少した。卵巣除去24時間で里子を付けると、ロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量は減少したが、-カゼインmRNA量は高レベルを維持した。このことから流産前に起こるロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量は、一過性の増加であると考えた。流産前に起こるロングタイプのプロラクチン受容体mRNA発現の調節機構を明らかにするため、卵巣除去及び卵巣と副腎除去し、プロジェステロンまたはコルチゾールを投与し、その影響を調べた。プロジェステロンは、ロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量の増加を有意に抑制した。卵巣と副腎除去してもその増加を抑制したが、コルチゾールを投与するとその量は回復した。また、血中プロジェステロン濃度は卵巣除去後2時間で急激に減少し、血中コルチコステロン濃度は卵巣除去後8時間がピークとなる一過性の増加が起こった。こうしたことから、流産前に起こるロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量の増加は、プロジェステロンの減少により抑制が解除され、糖質コルチコイドが作用し、活性化されると考察した。 第5章は、実際の分娩前後での調節機構を明らかにすることは重要なことであると考え、妊娠17日から泌乳2日までのプロラクチン受容体mRNA量の動態とその役割について述べた。ロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量は妊娠末期まで低いレベルであったが、分娩前日の妊娠18日1000と2200の間で有意に増加した。即ち自然分娩においても、分娩前にロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量の増加が起こった。血中プロジェステロン濃度は妊娠17日1000から除々に減少し、一方血中コルチコステロン濃度は、妊娠18日2200がピークとなる一過性の増加を示した。分娩前に起こるロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量の増加の機構を明らかにするため、妊娠17日の乳腺を24時間器官培養し、インシュリン,コルチコステロン,プロラクチン,胎盤性ラクトジェンを組み合わせ、その影響を調べた。ロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量を有意に増加させたのは、インシュリン+コルチコステロン+胎盤性ラクトジェンの群であった。胎盤性ラクトジェンは、ロングタイプのプロラクチン受容体mRNA量を増加させることが明らかとなった。一方-カゼインmRNA量は、分娩後の泌乳1日から増加が起こった。また泌乳0日の乳汁タンパク中に、-カゼインは検出されず泌乳4日から検出された。しかし、その他のカゼインは泌乳0日から検出された。このことから-カゼインは分娩後に起こる-カゼインmRNA量の増加に伴い、合成されることを示唆した。 妊娠中期卵巣除去モデルにおいて、カゼイン遺伝子発現はプロラクチン受容体遺伝子発現と同様に流産前に起こった。一方自然分娩ではプロラクチン受容体遺伝子発現が分娩前に起こったのに対し、-カゼイン遺伝子及び乳汁への分泌は分娩後に起こった。また泌乳0日の乳汁タンパクの解析から、-カゼインは他のカゼインと異なる動態を示した。こうした違いが何に起因しているのかは、現在のところ不明である。これを解明することは、泌乳生理学上における今後の重要な課題であると考えた。 哺乳類の繁殖期は、発情周期・妊娠期・泌乳期の一連の周期を描いている。この期間中、乳腺のプロラクチン受容体遺伝子発現は、一定の周期を描いて変化した。乳腺の最終分化である泌乳は、分娩後に開始する。妊娠末期に起こるプロジェステロンの低下に伴い、プロラクチン受容体遺伝子発現は分娩に先立ち一過性の増加が起こった。本論文において、分娩直前に起こるプロラクチン受容体遺伝子の発現が、泌乳の開始には重要であると結論した。 |