学位論文要旨



No 112462
著者(漢字) 田中,秀樹
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,ヒデキ
標題(和) クラスターイオンの衝突反応過程
標題(洋) Collisional Reaction Processes of Cluster Ions
報告番号 112462
報告番号 甲12462
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3242号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 近藤,保
 東京大学 教授 田隅,三生
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 助教授 永田,敬
内容要旨 I.

 クラスターとは、2〜103個の原子・分子が集まった有限多体系であり、その幾何構造や電子構造は構成粒子数(クラスターサイズ)に強く依存する。そのためクラスターの衝突反応過程では、クラスターの集団運動に起因する特異な反応や、特定のクラスターサイズにおいて顕著に進行する反応などが起こると期待される。例えば、ナトリウムクラスターイオン,,は、価電子がクラスター全体に非局在化されている典型的な金属クラスターであり、は閉殼の電子構造を持つ球状構造をとるのに対し、(n<9)は開殻の電子構造を持つ歪んだ球状構造をとることが知られている。そこで、こうした特徴を持つと希ガス、N2O,O2,SF6,NH3などの分子との衝突反応を系統的に調べることにより、金属クラスターの反応ダイナミクスを多角的に考察した。一方、典型的な分子クラスターであるメタノールクラスターイオンの解離過程との比較により、金属クラスターの衝突反応の特異性を検討した。

II.実験

 真空槽中で、金属Naをアルミナ製あるいはMo製の試料容器中に入れヒーター線によって約600Kに加熱した。発生した金属蒸気を、液体窒素で冷却した10〜20TorrのArあるいはHe気体中を通過させ、ナトリウムクラスターを生成した。このクラスターを電子衝撃によりイオン化し、(n=3〜9)とした。四重極質量分析器を用いてサイズ選別した後、He,Ne,Ar,Xe,N2O,O2,SF6やNH3などの分子と八重極イオンガイドで囲まれた衝突室中で衝突させた。その結果生成したイオンを、電場-磁場二重収束型質量分析器で質量分析し、検出した。得られた質量スペクトルから絶対反応断面積を算出した。また、生成イオンの分岐比から各生成イオンに対する反応断面積を求めた。

III.メタノールクラスターイオンの解離反応過程

 Ar気体とメタノール蒸気の混合気体の自由噴流中に電子を衝撃することにより、メタノールクラスターイオン,(CH3OH)nH+,を生成した。四重極質量分析器を用いてサイズ選別した(CH3OH)nH+と希ガス原子(He,NeまたはKr)とを衝突させたところ、親クラスターイオンからのCH3OH分子の蒸発が観測された。全反応断面積のクラスターサイズ依存性から、クラスターを剛体球とみなした場合の幾何学的半径内で反応が起こることを見出した。また、全反応断面積の衝突エネルギー依存性、および生成イオンの分布から、(CH3OH)nH+が衝突により励起され、その後1つづつCH3OH分子を蒸発していることを見出した。

IVおよびV.と希ガス原子の衝突反応-クラスターの変形と反応選択性

 とHeおよびNeとの衝突反応では、解離生成イオン,(p<n),が主生成物として観測された。図1に、閉殻の電子構造をもつとHe原子との衝突によるNa2解離およびNa解離に対する反応断面積の衝突エネルギー依存性を示す(なおこれ以後、衝突エネルギーはすべて重心座標系として扱うものとする)。2つの解離反応に対する反応断面積は0.4eV付近で立ち上がった後、衝突エネルギーの増加とともに増大し、Na2解離は2eV付近で、Na解離は1.5eV付近でそれぞれ極大値を示した後緩やかな減少を示している。この反応選択性の変化は、衝突によりが球形から変形し、価電子間の対相互作用が大きくなるためNa解離が抑制される結果、引き起こされたものと考えられる。クラスターの変形の効果を、歪んだジェリウム模型(Nilsson-Clemenger模型)を基に定量化し計算した解離の反応断面積を図1中に示す。一方、とHe原子との衝突ではNa2解離のみが、またとHe原子との衝突ではNa解離のみが観測された。これらのクラスターについても同様に、歪んだ球形から衝突による変形が引き起こされることを考慮することにより、高い反応選択性が説明される。

VI.とN2Oの衝突反応-銛打ち型反応性衝突

 とN2Oとの衝突では、酸化物イオン,NakO+,および解離生成イオン,(p<n),が主生成物として観測された。図2(a)にとN2Oとの衝突によるNakO+生成反応(酸化反応)および生成反応(解離反応)に対する絶対反応断面積の衝突エネルギー依存性を示す。衝突エネルギーの増加とともに、酸化反応の反応断面積は減少するのに対し、解離反応の反応断面積は増大する傾向を示している。図2(b)に、とN2Oとの衝突により生成するNa5O+,Na4O+およびNa3O+に対する反応断面積の衝突エネルギー依存性を示す。Na5O+やNa4O+を生成する反応断面積は、衝突エネルギーの増加とともに急激に減少するのに対し、Na3O+を生成する反応断面積は、衝突エネルギーの増加とともに緩やかに減少する傾向を示している。さらに図2(c)に、とN2Oとの衝突によるNa2解離およびNa解離に対する反応断面積の衝突エネルギー依存性を示す。両反応断面積は0.3eV付近で立ち上がった後、Na2解離については2eV付近で、またNa解離については1eV付近で極大値をとった後、徐々に減少する傾向を示している。とN2Oの全反応断面積は70〜90Å2と大きいことから、銛打ち型の反応が引き起こされていると考えられる。すなわち、非電荷交換状態,…N2O,から断熱遷移により電荷交換状態,…N2O-,に至った場合には、クーロン引力で束縛された錯合体内にて酸化反応が起こり、非断熱遷移し直接衝突した場合には解離反応が起こると考えられる。実際、断熱遷移の起こる確率をLandau-Zenerの方法により見積もり、酸化反応および解離反応に対する反応断面積の衝突エネルギー依存性を計算すると、実験値が再現される(図2(a)参照)。また、酸化反応により生じた反応熱をNanO+からNaを解離することにより緩和する、と考えることにより、NakO+の生成断面積が再現される(図2(b)参照)。さらに、直接衝突によるNa2解離およびNa解離反応は、N2Oの分子内振動の寄与を考慮に入れ、希ガス衝突において用いた方法を応用することにより、反応断面積が再現される(図2(c)参照)。

 一方、その他のクラスターサイズについても同様の実験を行ったところ、全反応断面積に、の電子構造を反映した偶奇性が観測された。また、観測された各生成イオンに対する反応断面積の衝突エネルギー依存性は、について検討した手法を適用することにより同様によく再現される。

VII.とO2,SF6の衝突反応-銛打ち型反応と標的分子

 とO2との衝突では、解離反応により生成した(p<n)の他に、酸化反応により生成した一酸化物イオン,NakO+,および二酸化物イオン,が観測された。全反応断面積のクラスターサイズ依存性から、銛打ち型の反応が起きていると考えられる。また、酸化反応および解離反応に対する反応断面積の衝突エネルギー依存性は、N2O衝突と同様、電荷交換状態および非電荷交換状態に対するポテンシャルエネルギー曲線の交差を考慮することにより説明される。一方、NakO+生成および生成に対する生成比のクラスターサイズ依存性では、クラスターサイズの増加とともに、生成に対しNakO+生成の割合が増大する傾向を示した。これは、クラスターサイズの増加によりO=O結合の解離が促進されていることを示唆している。

 とSF6との衝突では全てのクラスターサイズについて、解離反応により生成した(p<n)の他に、Na2F+が観測された。また、他の標的分子との衝突とは異なり、Na+も観測された。とSF6との衝突反応過程では、SF6の電子親和力が約1eVとかなり大きいため、N2OやO2の場合と同様に銛打ち型の反応が起こると考えられる。その際、中問体として生成する中のは効率よくとFに解離する。実際、Na2F+の生成に対する反応断面積の衝突エネルギー依存性は、こうして生成したFとクラスターイオン,,との反応を考慮することにより説明される。また、Fととの反応により生成する2価イオン,NanF2+,のクーロン爆発によりNa+が生成していると考えられる。

VIII.とNH3との衝突による選択的融合反応

 とNH3を衝突させたところ、(p<n)の他に、1eV以下の衝突エネルギー領域においてが観測された。特に、奇数サイズのクラスターイオン,,との衝突ではのみ、また偶数サイズのクラスターイオン,,との衝突ではのみ生成することを見出した。これは、衝突により生成したから選択的にNaあるいはNa2が解離するためであると考えられる。

IX.と希ガス原子との衝突解離過程における標的粒子の質量依存性

 衝突による全体振動の励起が顕著に反映されるの解離反応過程について、He,Ne,Ar,KrおよびXeとの衝突実験を行った。解離の全反応断面積は、標的粒子とクラスター間の相互作用ポテンシャルに大きく依存することを見出した。また、衝突による全体振動の励起は、標的粒子の質量に大きく依存することを見出した。

X.結論

 クラスターイオンと種々の標的粒子との衝突反応過程は、2段階の過程で進行することを見出した。すなわち、標的粒子との一時的な衝突錯合体形成過程、およびそれに引き続き起こる錯合体からの単分子解離過程である。とN2O,O2,SF6など電子親和力の大きな分子との衝突では、銛打ち型の反応が起こる。その結果生成する電荷交換状態を経由して反応錯合体内で酸化反応や分解反応が進行する。一方、希ガス原子やNH3など電子親和力の小さな分子とは、直接衝突によるクラスターの解離反応が起こる。その際、クラスターイオン内の振電相互作用に起因する反応の抑制が引き起こされる。

図1.Na9+とHeとの衝突反応。Na2解離(○)およびNa解離(●)断面積の衝突エネルギー依存性。実線は計算値(本文参照)。図2.Na9+とN2Oとの衝突による反応断面積の衝突エネルギー依存性。(a)酸化反応(●)および解離反応(○)、(b)Na5O+生成(□)、Na4O+生成(△)およびNa3O+生成(○)、(c)Na解離(●)およびNa2解離(○)に対する反応断面積を表す。また各図中の実線は計算値(本文参照)。
審査要旨

 本論文は10章から成り、クラスターイオンの衝突反応過程に関して、ナトリウムクラスターイオンおよびメタノールクラスターイオンを例に挙げて論述している。

 第1章では、クラスター自身の特異性とクラスターの衝突反応過程を議論する上での諸問題について簡単に論じた後、本論文の概要が述べられている。

 第2章では、本研究で開発した衝突反応装置の詳細について述べられている。衝突反応過程のクラスターサイズ依存性を調べるために、2つの質量選別器を導入しており、また反応により生成したイオンを効率よく捕集検出するために、8極子イオンガイドを利用している。

 第3章では、メタノールクラスターイオンと希ガス原子との衝突解離過程について論じている。この過程を2段階反応、すなわち衝突によるクラスター励起過程とそこからの単分子的解離過程として取り扱うことを提案している。前者については、全反応断面積のクラスターサイズ依存性を基に、クラスターを剛体球とみなした場合の幾何学的半径内で反応が起こる、と結論している。一方後者については、生成イオンの分布から、励起されたクラスターイオンからメタノール分子が1分子ずつ蒸発するモデルを提示している。

 第4章では、衝突によるクラスターの変形が解離過程に及ぼす影響について、電子的に閉殻な構造を持つナトリウムクラスターイオンの9量体とHe原子との衝突を例に挙げて論述している。この衝突によるNa解離およびNa2解離反応が競合して観測されているが、Na2解離反応が1つのポテンシャル上で進行する反応であるのに対し、Na解離反応はポテンシャルの交差を要する過程である点に着目して、これら2つの過程に対する反応断面積の衝突エネルギー依存性のちがいを説明している。すなわちナトリウムクラスターイオンは、衝突による幾何的な構造変化が強い振電相互作用によりその電子構造に影響を与えるため、前述のポテンシャルの交差領域に影響が現れる点に着目している。第5章では、電子的に開殻なナトリウムクラスターイオンも含めた希ガス原子との衝突について、衝突励起過程、および解離過程の定量的な取り扱いの詳細について論述している。衝突励起過程については、第3章で提案されているスペクテーター衝突模型の拡張を試みている。すなわち、衝突径数の大きい衝突(かすり衝突)について、ナトリウム原子と希ガス原子との相互作用ポテンシャルの利用を提案している。また、解離過程については、第4章で提案された幾何的な構造変化の影響を、Nillson-Clemenger模型を基に定量化し、実際の計算に利用している。

 第6章では、ナトリウムクラスターイオンとN2O分子との衝突反応過程について論述している。この衝突反応は銛打ち機構により進行しており、電荷交換反応が起きた場合には、衝突錯合体内で酸化反応が進行し酸化物イオンを生成している、という反応機構を提案している。実際この反応機構に基づいた計算結果を実験結果と比較することにより、モデルの妥当性を検証している。第7章では、第6章の拡張として、ナトリウムクラスターイオンと電子親和力の大きい分子(O2およびSF6)との衝突反応過程について論述している。これらの分子との反応は、銛打ち機構による電荷交換反応が起きた後、生成した電荷交換錯合体内で標的分子の解離反応が進行する結果、最終生成イオンを生成する機構を提案している。第8章では、ナトリウムクラスターイオンとNH3分子との衝突反応過程について論述している。ここでは、NH3分子のクラスターへの吸着反応を観測しているが、クラスターとNH3分子が比較的強い結合を形成する点に着目して、吸着反応の反応機構を提案している。実際、その機構に基づいたシミュレーション結果と実験結果の比較から、反応機構の検証を行っている。第9章では、衝突過程における標的粒子の質量効果について論述している。ここでは第4章および第5章で提案された衝突解離過程に関するモデルについて、標的粒子の質量依存性の観点から検証を行っている。

 第10章では、本研究で得られた結果を総合して、クラスターイオンと標的粒子との衝突反応過程に関する観点を分類した後、個々の系に関する結論が述べられている。

 以上まとめたように、論文提出者はクラスターイオンの衝突反応過程の本質を探る研究に成功しており、本論文は博士(理学)の学位論文として十分な内容を持つと判断される。なお、本論文は主として近藤保氏、永田敬氏、野々瀬真司氏、廣川淳氏、染田清彦氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究したもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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