学位論文要旨



No 112257
著者(漢字) 榎本,泰子
著者(英字)
著者(カナ) エノモト,ヤスコ
標題(和) 近代中国と西洋音楽 : 上海音楽学院を中心に
標題(洋)
報告番号 112257
報告番号 甲12257
学位授与日 1996.10.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第91号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川本,皓嗣
 東京大学 助教授 伊藤,徳也
 東京大学 助教授 刈間,文俊
 東京大学 教授 塚本,明子
 東京外国語大学 客員教授 孫,玄齢
内容要旨

 近代以前、すでに中国にはキリスト教宣教師によって西洋音楽の旋律や楽器がもたらされていたが、本格的に普及したのはアヘン戦争後のことであった。開港地周辺におけるキリスト教の布教と教会学校の設立に伴い、讃美歌の調べが広まるようになったが、西洋音楽が中国人によって主体的に学ばれるようになるのは、西洋式の教育を施す学校の設立と、日本留学ブームを経てからのことである。沈心工を始めとする留学生は、明治日本の唱歌教育に注目し、中国でもこれを実践しようとした。彼らは持ち帰った日本唱歌の旋律に中国語の歌詞をつけ、音楽教材として用いた。「学堂楽歌」と呼ばれたこれらの歌は、西洋音階や楽典知識の普及だけでなく、愛国的・反封建的な思想を全国に広める役割をも果たした。

 辛亥革命により中国には近代化の波が押し寄せたが、音楽教育の発展に理論的な枠組みを与えたのが蔡元培であった。彼はドイツで身につけた哲学思想に基づいて「美育(芸術教育)」の重要性を訴え、音楽を文化促進の手段であるとしたが、そこには音楽の社会的効用を重視する儒教的音楽観も反映されていた。1917年北京大学校長となった蔡元培は、学生の芸術活動を奨励し、自ら音楽サークルの会長を務めた。このサークルは1922年に北京大学付属音楽伝習所に発展するが、これは中国における音楽専門教育機関として初めてのものである。

 北京大学付属音楽伝習所の運営を実質的に担ったのは蕭友梅であった。蕭友梅は少年時代を過ごしたマカオで宣教師の弾くオルガンの音色に魅せられ、日本に留学して教育と音楽を学んだ。辛亥革命後ドイツに留学して本格的に音楽学や作曲を学び、帰国直後北京大学に迎えられたのである。近代中国における西洋音楽受容の道筋を体現しているとも言えるこの人物が、専門教育の確立に大きな貢献をすることになった。蕭友梅は北京在住の外国人音楽家や、当時まだ少なかった中国人音楽家(清末の税関総務司ハートの私設楽隊のメンバーだった人々など)を用い、学生に西洋音楽の理論と技術を伝授するだけでなく、管弦楽隊を結成して幾度も音楽会を開き、啓蒙と普及に努めた。これらの活動は中国の伝統音楽の分野にも影響を与え、同じ伝習所の教師だった劉天華の二胡改良等に見られるように、西洋音楽の長所を取って中国音楽の新たな発展を図ろうとする試みがなされた。

 蕭友梅らの尽力により女子師範大学や芸術専科学校にも音楽科が設けられ、北京における音楽教育の裾野は着実に広がっていった。しかし軍閥政府の無理解と財政の悪化により、1927年には女子師範大学を除く全ての音楽教育機関は閉鎖されることになった。蕭友梅は、4・12クーデターの余波で南京国民党政府の大学院院長(教育行政の長)に就任した蔡元培を頼って南下し、上海に中国初の独立した音楽学校を作ることを建議して了承された。上海租界には工部局交響楽団に代表される水準の高い音楽文化があり、蕭友梅は教師の人材を得るためと、学生への環境的配慮から、この地に国立音楽院を作ることを決意したのである。彼は高額の給料を払って白系ロシア人等の外国人音楽家を招き、世界的水準の教育態勢を整えた。北京大学付属音楽伝習所の教育は、実質的には師範教育にとどまっていたが、国立音楽院では若年からの体系的な教育により、初めて専門家の養成に着手した。

 1929年、政府の無理解により国立音楽院は国立音楽専科学校に降格されたが、音専は個性豊かな教師や協力者によって独特の校風を誇った。校長蕭友梅、その友人趙元任、音専教職員の青主や黄自などは、優れた歌曲を作って創作分野における指針を残した。その作風を概観すれば、まず蕭友梅の作品は実験的な作風と、教材として果たした役割から、日本の芸術唱歌にも比すべき位置を占めていると言える。趙元任は専門の言語学の知識と伝統音楽の素養を生かし、中国語の声調を生かした旋律で独自の境地を開いた。また青主はドイツロマン派の濃厚な影響のもとに、宋詞を用いたダイナミックな作品を書いた。黄自は学堂楽歌で育った新しい世代として、豊かな和声を駆使した画期的な作品を残した。この四人はいずれも欧米で音楽を学び、当地の音楽文化の強い影響を受けた点に特徴がある。

 音専は外国人教師らの理解と協力のもと着実に成果を上げ、租界の音楽活動とも密接な関係を持つようになった。学生がアマチュア音楽家と共演したり、趙元任の作品が外国人合唱団によって歌われるということもあった。そもそも蕭友梅は、外国人教師の招聘にあたって工部局交響楽団の指揮者マリオ・パーチに協力を頼んだが、青主や黄自もパーチと個人的な交流を持ったと見られる。特に青主のパーチに宛てた公開書簡からは、彼らが中国音楽の将来等について真剣に議論していたことがうかがえる。1935年、それまで閉鎖的だった工部局交響楽団に音専出身者を含む五人の中国人が初めて参加したことは、蕭友梅ら中国人音楽家が積極的に外国人音楽家とつながりを持ったことの成果であった。

 中国人音楽家にとって最も大きな課題は、西洋音楽から一体何を学び、中国音楽の発展に供するのかということであった。33年に上海楽壇に登場したユダヤ人作曲家アヴシャローモフは、西洋音楽の形式に中国伝統音楽の旋律を取り入れた独特の作風で人々に衝撃を与えた。芸術批評家・翻訳家の傅雷は、伝統音楽の沈滞した現状に鑑みてアヴシャローモフの手法こそが中国音楽に活路を開くものであると認め、日中戦争により急速に悪化していく時代の雰囲気の中で、音楽と演劇こそが人の魂を救うとして芸術家・知識人の覚醒を呼びかけた。

 当時上海では左翼音楽家が活動を始めており、聶耳もその一人だった。当初彼は黎錦暉率いる明月歌劇団のヴァイオリン奏者を務めていたが、通俗的な音楽に飽きたらずにこの仕事を辞め、劇作家田漢らに協力して左翼映画の主題歌を作り始めた。30年代に入り上海映画界ではトーキー映画の製作が始まっていたが、左翼運動家たちは映像と音楽を通じて抗日運動を拡大し、大衆の民族意識を呼び覚ますことをねらいとしていた。聶耳の作品は明るい曲調に歌いやすい音や単純なリズムを用い、暗い時代にあって希望を求めていた人々の心をつかんだ。正規の音楽教育を受けたことがなく、音専に憧れを持っていた聶耳だったが、国民党政府の追求もあり国外に逃れて音楽を勉強することになった。その途次立ち寄った日本で、彼は不幸にも海で溺れて死亡した。聶耳の遺作は映画「風雲児女」の主題歌「義勇軍行進曲」(後の中華人民共和国国歌)で、彼の作風の結晶とも言うべきこの歌は、抗日運動が高まりを見せる中国全土に瞬く間に広まっていった。

 一方国立音楽専科学校は、上海の新市街に新しい校舎を建て充実期を迎えたかに見えたが、西洋に範を取ったその教育は、左翼音楽家から「古典主義の学院派」などと批判された。音専の学生からも、賀緑汀等左翼映画音楽の作曲に携わる者も出、抗日運動の激化と民族意識の高揚に伴い、蕭友梅らも中国音楽と音楽教育の行く末について明確な認識を迫られるようになっていった。その中で、1935年の左翼映画「都市風光」の製作に趙元任と黄自が参加したことは注目すべきである。二人はそれぞれの個性を生かして映画の序曲や挿入歌を書き、際だった効果をあげて高く評価された。この事実からは、大衆に接近していないと批判された音専の音楽家たちが、抗日・愛国という思想の上では決して人々と異なるものではなかったこと、また彼らの作風が必ずしも大衆に無用のものではなかったことを示している。

 蕭友梅もラジオ放送を通じ、高尚な音楽で大衆を感化しようとするなど、音楽と社会との関わりを深刻に受けとめていた。これは、北京大学附属音楽伝習所から国立音楽院、音専へと至るまで、音楽の社会的効用を前提に進められてきた音楽教育の歩みからすれば当然のことだった。1937年8月第二次上海事変により音専校舎は破壊され、音専は再び租界の中を転々とする境遇に陥った。蕭友梅は晩年、民族性の反映としての音楽を重視し、抗日精神の表現が現在の中国音楽のあるべき姿だと説いた。彼は以前ドイツ留学から帰った直後、中国音楽が進歩すれば将来西洋音楽と「同じになる」と述べたが、これは西洋を学ぶべき先進文化として疑わなかった五四期の思潮の表れであった。晩年の蕭友梅が民族性の追求を最優先課題としたのは、彼が時代の流れの中で、自ら信じた西洋音楽の優越性を公言できなくなったことを暗示している。

 以上の事実を踏まえて近代中国音楽史における国立音楽院・音専の役割を考察してみると、この学校が上海に成立したことは、蕭友梅が予想した以上の効果をあげたと思われる。外国人音楽家と中国人音楽家の交流に見られるように、そこでは音楽という共通の地平に立って対等な人間関係が結ばれた。中国人音楽家が西洋音楽から学ぼうとしていたものは単なる技術ではなく、一つの芸術を育んだ文化の厚みと豊かな精神性だった。しかしそれらの活動が実を結ぶ前に日中戦争が勃発し、西洋文化の理解者たちは民族主義のうねりの中に埋没してしまった。音専の音楽家たちを批判した左翼音楽家の論調は解放後に至っても変わることなく、特に文化大革命の時、音専の後身・上海音楽学院への徹底的な攻撃となって表れた。もしも中国の音楽家たちが、自分の学ぶものはあくまでも西洋音楽の技術や道具であって、精神ではないとするならば、このような態度で真に異文化を理解することは果たして可能なのだろうか。その意味で、音専をめぐる音楽家たちの活動をいかに評価するかは、単に中国音楽の将来を占う以上の重要な意義を持っているように思われる。

審査要旨

 本論文は、近代以降の中国における西洋音楽の受容と発展の過程を、たんに音楽史的な観点からだけではなく、思想や文化・社会全体との接触にかかわる問題として考察したものである。対象とする年代は今世紀初頭から1940年頃までで、とくに1930年代の上海の状況に主眼が置かれている。論文の大きな軸となっているのが、中国に初めて設立された音楽学校である上海音楽学院(現称。創立時は国立音楽院、のち国立音楽専科学校)の沿革と、創立者蕭友梅(しょうゆうばい)の事跡である。この学校が設立された経緯、そしてそこに集まった音楽家たちがどのような作品を書き、どのように評価されてきたか--筆者はそこに今世紀前半の中国音楽界が抱えていた問題の集約点を見出している。

 これまで中国では、政治的な理由から、いわゆる左翼音楽家以外の音楽家は無視されてきたため、上海音楽学院に関わった音楽家たちについては、本格的な研究がきわめて乏しい状態であった。ところが近年になって、ようやく関係者の評伝や著作集のたぐいが出版され、再評価の気運が高まってきている。筆者は1993年から翌年にかけて北京に留学した折に、上海音楽学院や北京の中央音楽学院で新旧資料の綿密な調査を行ない、また当時を知る人々から直接談話を聴取することで、本論文構想のための有力な基礎材料を得た。

 本論文は、「はじめに」以下、第一章「西洋音楽の伝来と普及」、第二章「新文化運動の流れの中で」、第三章「楽人の都・上海」、第四章「国楽はどこへ」、そして終章「中国音楽史における1930年代の意義」からなっている。

 アヘン戦争以後、開港地の周辺ではキリスト教の布教と教会学校の設立が盛んになり、讃美歌がひろまったが、中国人が進んで音楽を学ぶようになったのは、日清戦争後の日本留学ブームのころである。沈心工(しんしんこう)を初めとする留学生は、帰国後、日本の唱歌教育からヒントを得て、唱歌の旋律に中国語の歌詞をつけ、これを教材として用いはじめた。これらの「学堂楽歌」は、西洋音階や楽典知識を普及させただけでなく、歌詞を通じて愛国的・反封建的な思想を鼓吹する役割をも果たした(第一章)。

 辛亥革命による中国近代化の趨勢のなかで、音楽教育の基盤を築いたのは、蔡元培(さいげんばい)である。蔡はカント哲学の影響のもとに「美育(芸術教育)」の重要性を説き、1917年に北京大学の校長に就任すると、学生を励まして音楽サークルを結成、みずから会長をつとめた。このサークルは1922年、中国最初の音楽教育専門機関、北京大学付属音楽伝習所に発展する。この伝習所の運営に当たった蕭友梅は、日本に留学して教育と音楽を修めたのち、辛亥革命後はドイツで音楽学や作曲を学び、帰国後に北京大学に迎えられた。彼は北京に住む外国人音楽家や、ごく少数の中国人音楽家を集めて、西洋音楽の理論と実技の教育を開始した。また管弦楽団を組織してしばしば音楽会を開き、西洋音楽の普及につとめた。しかし経済的に不安定な北京の軍閥政権は、教育事業にじゅうぶんな理解を示さず、1927年に音楽伝習所は閉鎖された(第二章)。

 のち蕭は上海に移り、その頃南京国民党政府で大学院院長を務めていた蔡元培に、音楽学校の設立を建議して認められた。当時の上海租界には、19世紀後半から移り住んだ多数の西洋人が住み、工部局交響楽団など水準の高い音楽文化があった。こうして設立された国立音楽院は、教師の半数以上が白系ロシアなどの外国人音楽家で、その教育は世界的な水準に達していたという。北京大学付属音楽伝習所の教育は、実質的には師範教育にとどまっていたが、国立音楽院では、初めて若年からの体系的な教育による専門家の養成に着手した(第三章)。

 国立音楽院は1929年に国立音楽専科学校(音専)と改名し、その後めざましい充実を遂げ、楽曲の創作や演奏会活動もピークを迎える。しかし一方、日中戦争の開始とともに、社会の激動に直面する。当時の上海に登場したのは、大衆のための音楽をうたう左翼音楽家たちであった。かれらは映画の主題歌などを通じて大衆の民族意識を喚び覚まし、抗日運動を拡大することをねらいとしたが、その代表的な歌曲が中華人民共和国の国歌となった『義勇軍行進曲』である,左翼運動家たちは、西洋音楽を中心とする音専の教育が、大衆から遊離していると非難した。1937年に蘆溝橋事件が起こると戦火は上海に及び、市街戦と空爆のため、音専は新設の校舎を失なう。その後も学校の運営は細々と続けられるが、1940年に蕭友梅が病死し、音専は一つの時代を終えた(第四章)。

 以上は、筆者が綿密な調査にもとづいて整然と跡づけた事実の大筋である。先行研究がきわめて少ないこの分野では、こうした一貫した歴史事実の追跡そのものが、本論文の大きな功績であり、日中両国で今後の基礎文献となるであろうことは疑いを容れない。さらに本論文のめざましい意義として、以下の4点が挙げられる。

 その第一は、西洋文化が中国に移入されるさいに生じる伝統意識への強い抵抗ないしは軋轢の問題である。ドイツ哲学を学んだ蔡元培は、芸術の普及は一国の文化水準の尺度だと確信して、西洋文化の紹介と啓蒙につとめたが、その音楽観には,音楽による人格の陶冶、社会の調和を説く儒教的な礼楽思想が色濃く表われている。また音専の音楽家たちも、必ずしも西洋一辺倒ではなく、抗日・愛国の精神を訴えて、愛国歌の作曲にも手を染めた。それにもかかわらず、かれらが左翼陣営から現実逃避の非難を受けたのは,異文化の音楽を忠実に学ぶという音専の基本方針が、中国人の民族的自負心に抵触したからであろう。「中体西用」、実利的な面でのみ西洋の学問・技術を利用するという伝統的な姿勢からみれば、西洋の思想や文化の総体を視野に収める蔡らの本格的な受容は、民族への裏切り行為とさえ映ったに違いない。音専の発展期が日中戦争と民族主義の高揚期に重なったのも、不運であった。中華の伝統に基づく強烈な民族意識を保ちつつ、外国の文化をいかに学ぶかというのは、今後の中国においてますます重要となるはずの課題であり、本論文は、近代音楽史という領域で、この問題に真っ向から取り組んだ最初の貴重な試みである。

 その第二は、従来断片的にしか言及されてこなかった、外国人教師の役割を明らかにしたことである。当時の上海租界は帝国主義列強の橋頭堡であったが、同時に中国で世界に向いて開かれた数少ない窓のひとつであった。本論文は、工部局交響楽団の指揮者マリオ・パーチをはじめ、上海在住の西洋人音楽家の事跡を掘り起こし、学生との交流、指導のありさま、公開演奏会のようすを生き生きと再現するなど、入手しうる限りの資料を駆使して、かれらが当時の中国音楽に果たした貢献を明らかにしている。中国におけるヨーロッパ知識人の存在意義という問題自体、新しい研究領野を切り開いたものといってよい。

 第三には、音専の音楽家たちの活動が中国音楽史上でもつ意味を再検討するために、蕭友梅を含む四人の音楽家の作品を考察していることである。それらの曲は、西洋音楽の技法の上に伝統音楽の旋律を取り入れたり、古典形式の歌詞を用いたりした作品で、草創期の貴重な試みであるが、本論文は、歌詞の平仄や脚韻が旋律やリズムの上にどう反映されているかなど、珍しい楽譜の具体的な分析を通じて、楽曲の上にあらわれた西・中両文化の出会いの実態に迫っている。これも今後の研究に重大な礎石を築くものであろう。

 第四には、これまで左翼運動という観点からのみ語られてきた、上海映画と音楽との関わりに、初めて正面から光を当てたことである。その代表的な作曲家聶耳(じょうじ)に対する評価も、じゅうぶんに的を得ている。

 このように本論文は、中国近代音楽における西洋音楽の受容という、まだあまり開拓の進んでいない問題、ひいては近代中国における西洋文化受容という根本的な問題の研究に、斬新で着実な接近を試みたものとして、大きな意義をもっている。構成はよくバランスがとれ、材料の取捨選択や記述も的確で、精彩がある。ただ、本論文にはまだ不十分な点もある。例えば歌曲を具体的に分析した部分では、古典的詩法の理解が充全ではなく、歌詞の平仄や脚韻と旋律・リズムの関係の記述も正確とはいえない。概して中国の新しい唱歌では、日本の場合よりも伝統的な要素が重んじられ、中国語の歌詞にこだわる傾向が強いようである。こうした中国での受容のしかたの独自性については、もっと追究の余地があるだろう。またカントにおける芸術の自律性と、儒教の礼楽思想との深刻な対立が、蔡元培のなかでどのように解決されていたのか、その点でも今後の掘り下げが期待される。

 このように、なお今後の論考に俟つ余地はあるものの、それは本研究の価値を損なうものではなく、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。

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