本論文は、近代以降の中国における西洋音楽の受容と発展の過程を、たんに音楽史的な観点からだけではなく、思想や文化・社会全体との接触にかかわる問題として考察したものである。対象とする年代は今世紀初頭から1940年頃までで、とくに1930年代の上海の状況に主眼が置かれている。論文の大きな軸となっているのが、中国に初めて設立された音楽学校である上海音楽学院(現称。創立時は国立音楽院、のち国立音楽専科学校)の沿革と、創立者蕭友梅(しょうゆうばい)の事跡である。この学校が設立された経緯、そしてそこに集まった音楽家たちがどのような作品を書き、どのように評価されてきたか--筆者はそこに今世紀前半の中国音楽界が抱えていた問題の集約点を見出している。 これまで中国では、政治的な理由から、いわゆる左翼音楽家以外の音楽家は無視されてきたため、上海音楽学院に関わった音楽家たちについては、本格的な研究がきわめて乏しい状態であった。ところが近年になって、ようやく関係者の評伝や著作集のたぐいが出版され、再評価の気運が高まってきている。筆者は1993年から翌年にかけて北京に留学した折に、上海音楽学院や北京の中央音楽学院で新旧資料の綿密な調査を行ない、また当時を知る人々から直接談話を聴取することで、本論文構想のための有力な基礎材料を得た。 本論文は、「はじめに」以下、第一章「西洋音楽の伝来と普及」、第二章「新文化運動の流れの中で」、第三章「楽人の都・上海」、第四章「国楽はどこへ」、そして終章「中国音楽史における1930年代の意義」からなっている。 アヘン戦争以後、開港地の周辺ではキリスト教の布教と教会学校の設立が盛んになり、讃美歌がひろまったが、中国人が進んで音楽を学ぶようになったのは、日清戦争後の日本留学ブームのころである。沈心工(しんしんこう)を初めとする留学生は、帰国後、日本の唱歌教育からヒントを得て、唱歌の旋律に中国語の歌詞をつけ、これを教材として用いはじめた。これらの「学堂楽歌」は、西洋音階や楽典知識を普及させただけでなく、歌詞を通じて愛国的・反封建的な思想を鼓吹する役割をも果たした(第一章)。 辛亥革命による中国近代化の趨勢のなかで、音楽教育の基盤を築いたのは、蔡元培(さいげんばい)である。蔡はカント哲学の影響のもとに「美育(芸術教育)」の重要性を説き、1917年に北京大学の校長に就任すると、学生を励まして音楽サークルを結成、みずから会長をつとめた。このサークルは1922年、中国最初の音楽教育専門機関、北京大学付属音楽伝習所に発展する。この伝習所の運営に当たった蕭友梅は、日本に留学して教育と音楽を修めたのち、辛亥革命後はドイツで音楽学や作曲を学び、帰国後に北京大学に迎えられた。彼は北京に住む外国人音楽家や、ごく少数の中国人音楽家を集めて、西洋音楽の理論と実技の教育を開始した。また管弦楽団を組織してしばしば音楽会を開き、西洋音楽の普及につとめた。しかし経済的に不安定な北京の軍閥政権は、教育事業にじゅうぶんな理解を示さず、1927年に音楽伝習所は閉鎖された(第二章)。 のち蕭は上海に移り、その頃南京国民党政府で大学院院長を務めていた蔡元培に、音楽学校の設立を建議して認められた。当時の上海租界には、19世紀後半から移り住んだ多数の西洋人が住み、工部局交響楽団など水準の高い音楽文化があった。こうして設立された国立音楽院は、教師の半数以上が白系ロシアなどの外国人音楽家で、その教育は世界的な水準に達していたという。北京大学付属音楽伝習所の教育は、実質的には師範教育にとどまっていたが、国立音楽院では、初めて若年からの体系的な教育による専門家の養成に着手した(第三章)。 国立音楽院は1929年に国立音楽専科学校(音専)と改名し、その後めざましい充実を遂げ、楽曲の創作や演奏会活動もピークを迎える。しかし一方、日中戦争の開始とともに、社会の激動に直面する。当時の上海に登場したのは、大衆のための音楽をうたう左翼音楽家たちであった。かれらは映画の主題歌などを通じて大衆の民族意識を喚び覚まし、抗日運動を拡大することをねらいとしたが、その代表的な歌曲が中華人民共和国の国歌となった『義勇軍行進曲』である,左翼運動家たちは、西洋音楽を中心とする音専の教育が、大衆から遊離していると非難した。1937年に蘆溝橋事件が起こると戦火は上海に及び、市街戦と空爆のため、音専は新設の校舎を失なう。その後も学校の運営は細々と続けられるが、1940年に蕭友梅が病死し、音専は一つの時代を終えた(第四章)。 以上は、筆者が綿密な調査にもとづいて整然と跡づけた事実の大筋である。先行研究がきわめて少ないこの分野では、こうした一貫した歴史事実の追跡そのものが、本論文の大きな功績であり、日中両国で今後の基礎文献となるであろうことは疑いを容れない。さらに本論文のめざましい意義として、以下の4点が挙げられる。 その第一は、西洋文化が中国に移入されるさいに生じる伝統意識への強い抵抗ないしは軋轢の問題である。ドイツ哲学を学んだ蔡元培は、芸術の普及は一国の文化水準の尺度だと確信して、西洋文化の紹介と啓蒙につとめたが、その音楽観には,音楽による人格の陶冶、社会の調和を説く儒教的な礼楽思想が色濃く表われている。また音専の音楽家たちも、必ずしも西洋一辺倒ではなく、抗日・愛国の精神を訴えて、愛国歌の作曲にも手を染めた。それにもかかわらず、かれらが左翼陣営から現実逃避の非難を受けたのは,異文化の音楽を忠実に学ぶという音専の基本方針が、中国人の民族的自負心に抵触したからであろう。「中体西用」、実利的な面でのみ西洋の学問・技術を利用するという伝統的な姿勢からみれば、西洋の思想や文化の総体を視野に収める蔡らの本格的な受容は、民族への裏切り行為とさえ映ったに違いない。音専の発展期が日中戦争と民族主義の高揚期に重なったのも、不運であった。中華の伝統に基づく強烈な民族意識を保ちつつ、外国の文化をいかに学ぶかというのは、今後の中国においてますます重要となるはずの課題であり、本論文は、近代音楽史という領域で、この問題に真っ向から取り組んだ最初の貴重な試みである。 その第二は、従来断片的にしか言及されてこなかった、外国人教師の役割を明らかにしたことである。当時の上海租界は帝国主義列強の橋頭堡であったが、同時に中国で世界に向いて開かれた数少ない窓のひとつであった。本論文は、工部局交響楽団の指揮者マリオ・パーチをはじめ、上海在住の西洋人音楽家の事跡を掘り起こし、学生との交流、指導のありさま、公開演奏会のようすを生き生きと再現するなど、入手しうる限りの資料を駆使して、かれらが当時の中国音楽に果たした貢献を明らかにしている。中国におけるヨーロッパ知識人の存在意義という問題自体、新しい研究領野を切り開いたものといってよい。 第三には、音専の音楽家たちの活動が中国音楽史上でもつ意味を再検討するために、蕭友梅を含む四人の音楽家の作品を考察していることである。それらの曲は、西洋音楽の技法の上に伝統音楽の旋律を取り入れたり、古典形式の歌詞を用いたりした作品で、草創期の貴重な試みであるが、本論文は、歌詞の平仄や脚韻が旋律やリズムの上にどう反映されているかなど、珍しい楽譜の具体的な分析を通じて、楽曲の上にあらわれた西・中両文化の出会いの実態に迫っている。これも今後の研究に重大な礎石を築くものであろう。 第四には、これまで左翼運動という観点からのみ語られてきた、上海映画と音楽との関わりに、初めて正面から光を当てたことである。その代表的な作曲家聶耳(じょうじ)に対する評価も、じゅうぶんに的を得ている。 このように本論文は、中国近代音楽における西洋音楽の受容という、まだあまり開拓の進んでいない問題、ひいては近代中国における西洋文化受容という根本的な問題の研究に、斬新で着実な接近を試みたものとして、大きな意義をもっている。構成はよくバランスがとれ、材料の取捨選択や記述も的確で、精彩がある。ただ、本論文にはまだ不十分な点もある。例えば歌曲を具体的に分析した部分では、古典的詩法の理解が充全ではなく、歌詞の平仄や脚韻と旋律・リズムの関係の記述も正確とはいえない。概して中国の新しい唱歌では、日本の場合よりも伝統的な要素が重んじられ、中国語の歌詞にこだわる傾向が強いようである。こうした中国での受容のしかたの独自性については、もっと追究の余地があるだろう。またカントにおける芸術の自律性と、儒教の礼楽思想との深刻な対立が、蔡元培のなかでどのように解決されていたのか、その点でも今後の掘り下げが期待される。 このように、なお今後の論考に俟つ余地はあるものの、それは本研究の価値を損なうものではなく、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。 |