学位論文要旨



No 111889
著者(漢字) 桑名,芳彦
著者(英字)
著者(カナ) クワナ,ヨシヒコ
標題(和) カイコガにおける行動発現機構の人工的統合
標題(洋)
報告番号 111889
報告番号 甲11889
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3687号
研究科 工学系研究科
専攻 情報工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 下山,勲
 東京大学 教授 井上,博允
 東京大学 教授 田中,英彦
 東京大学 教授 武市,正人
 東京大学 教授 三浦,宏文
内容要旨

 昆虫の持つ感覚器官は実に多様である.それらは匂いや音,光など各種の刺激に対して非常に鋭い感度を持っている上,ある特定の刺激に対して特化しているので,それ以外の刺激に対しては反応しないという特異性を持っている.例えば雄カイコガは雌のフェロモン(ボンビコール)に反応して交尾行動を起こすが,これはわずか1個のボンビコール分子で誘発される.

 このような昆虫の持つ鋭敏な感覚器官をロボットのセンサとして利用すれば,新しい形のロボットが製作できる.それは本物の昆虫(生体)とコンピュータやモータなどの機械部品を合わせ持った「生体と機械のハイブリッドなシステム」である.このハイブリッド・ロボット・システムは利用する感覚器官に応じた刺激に対して鋭敏な反応を示す.そして脳に相当する部分をニューラルネットなどを用いて構成することで,これまでコンピュータ・シミュレーションでしか検証できなかった感覚入力と行動発現の関係に関して,「実環境中で実験する」という新たな検証手段を与え,新しい知見が得られる可能性がある.

 筆者はカイコガを実験材料に選び,ボンビコールに対する雄カイコガの触角の鋭敏な感受性をロボットのセンサとして利用できることを示してきた[1].本論文では製作したフェロモン・センサの性能を評価し,さらにそのセンサを小型移動ロボットに取り付けて,フェロモンの存在する実環境中でロボットを本物のカイコガ同様に動かすための行動制御用ニューラルネットに関して検討した.

フェロモン・センサとその性能評価フェロモン・センサ

 ボンビコール分子が雄カイコガの触角に触れると,触角内の受容細胞が神経インパルスを発し,触角の基部と先端との間には電位差が生じる.これを触角電位(Electroantennogram,EAG, Fig.1参照)という.

Fig.1 Electroantennogram(EAG)

 この触角電位をフェロモンの検知信号とし,それを拾うためのフェロモン・センサを2種類製作した.1つはFig.2(a)に示すように,触角の両端からリンガー液を満たしたガラス管を刺し込み,リンガー液経由で触角の電位変化を計測するものである(Type-I).もう1つは, Fig.2(b)に示すように触角の両端に銀電極を直接刺入して,触角電位の変化を計測するものである(Type-II).

Fig.2 Pheromone Sensors
Dose Response実験

 フェロモン濃度に対する触角電位の振幅変化を調べるため,各種濃度のフェロモンを混ぜた空気をセンサに当てて触角電位を測定した.空気流速は1m/s程度に設定し,電磁弁を使って刺激時間0.5sec,刺激の周期を1分に設定した.フェロモン濃度を10-10g/10lのように記したが,これは合成フェロモン10-10gを溶媒であるヘキサン10lに溶かしてある,という意味である.

 得られたDose Response CurveをFig.3に示す.これらより反応のスレッショルドはType-Iのセンサで10-10g/10l,Type-IIのセンサで10-11g/10lであると判断した.なおここでは電気生理実験用として市販されているアンプを用いた.

Fig.3 Dose Response Curves(Biologically Specified Amplifier)

 また自作したアンプを使って,Type-IIセンサのDose Response実験を行った.Fig.4に示された結果から,反応のスレッショルドは10-9g/10lであり,自作アンプを用いて触角電位の測定は可能であることが分かった.

Fig.4 Dose Response Curve(Type-II Sensor,Original Amplifier Design)
寿命測定実験

 センサとして使用できる時間(寿命)を調べた結果,2つのタイプのセンサとも寿命は約80分であると判断できた.Type-Iのセンサは,ガラス管内のリンガー液が蒸発してしまうのが寿命を決める主因である.したがって蒸発しないような対策を講じると,経験上約1日は使うことができる.それに対しType-IIのセンサは,銀線の刺入による生体組織の破壊が寿命を決める主因であると考えられる.

ロボット(Pheromone-Guided Mobile Robot)による実験

 フェロモン・センサを用いてカイコガと同様な動きが実現できることを示すため,シミュレーションとロボットを用いて実験した.製作したロボット(Pherom-one-Guided Mobile Robot)の外観をFig.5に示す.

Fig.5 Pheromone-Guided Mobile Robot

 シミュレーションを行った環境をFig.6に示す.台形のブルーム内ではフェロモンは離散的に分布しており,センサは確率0.3でフェロモンを検知する.ロボットの軌跡は線で示し,黒丸はフェロモンを検知したことを示している.実機による実験では,ロボットの前方約10cmのところから約1m/sの流速でフェロモンを含んだ空気を流した.そのときのフェロモン・プルームはスモーク実験の結果から推測しグレーで示した.

ロボット制御プログラム

 ロボット制御プログラムには,再帰的な結合を許したリカレントなニューラルネットワーク(以後RNN)を使用し,単純反射型プログラム,遺伝アルゴリズムで最適化したRNN,フリップ・フロップ型RNNの3種類に関して検討した.RNNはFig.7に示すように8個のニューロンから成り,左右のセンサからの入力を受けるセンサ・ニューロンが2つと,左右のモータへの出力を決めるモータ・ニューロンが2つある.

図表Fig.6(Left)Pheromone Simulation Plume / Fig.7(Right)Recurrent Neural NetworkI.単純反射型プログラム

 フェロモン刺激に対して反射的に行動するプログラムで,

 ・右(左)センサからの入力があると右(左)へ進む,

 ・両方のセンサから入力があったとき前進する,

 ・何の入力もないときにはその場にとどまったまま動かない,

 というものである.これを実現したプログラムをFig.8に示す.実験結果をFig.9と Fig.10 に示す.このプログラムではカイコガ特有のジグザグ歩行は見られるが,周回運動は見られない.

図表Fig.8(Left)Simple Reflex-Based Program / Fig.9(Center)Simulation Result / Fig.10(Right)Experimental Result
II.遺伝アルゴリズムで最適化したRNN

 Fig.6で示した環境中でGAを用い,フェロモン源に近づけた個体を残すような淘汰をかけてRNNを進化させた.その結果得られたRNNをFig.11に示す.またシミュレーション結果をFig.12に示す.シミュレーションでは効率よくフェロモン源に近づく個体が現れたが,実機を用いた実験ではフェロモン・プルームからすぐに外れてしまい,うまくいかなかった.

図表Fig.11(Left)GA-optimized RNN / Fig.12(Right)Simulation Result
III.フリップ・フロップ型RNN

 神崎らによると,カイコガの脳内にフリップ・フロップに似た一時記憶機構があり,触角に入ったフェロモン刺激の情報が記憶され,刺激に応じた反応を示すと考えられている[2][3].例えば右の触角がフェロモンを感じると,雄は少し前進(surge)した後,右→左→右→左というように交互に体を動かし(cast),最終的には右にグルグルと回り続ける(turn, Fig.13参照).この生物学的な知見を基に,それと似た行動を起こすRNNを考えた.それをFig.14に示す.

図表Fig.13(Left)Silkworm Moth Behavior When Stimulated by Pheromone / Fig.14(Right)Flip Flop-Type RNN

 Fig.15とFig.16にシミュレーション結果と実機による実験結果を示す.フェロモン刺激によってカイコガ特有のジグザグ歩行と周回運動が生じ,フェロモン源に定位しようとしている様子がいることがよく分かる.

図表Fig.15(Left)Simulation Result(Flip Flop-Type RNN) / Fig.16(Right)Experimental Result(Flip Flop-Type RNN)
結論および展望

 雄カイコガの触角を用いてフェロモンに対するセンサを2種類製作し,それぞれの反応のスレッショルドおよび寿命を測定した.その結果,リンガー液経由で信号を計測するセンサは10-10g/10l以上の濃度で反応した.これは空気中の濃度に換算すると約10-4ppmになる.また銀線を直接刺入するセンサは10-11g/10l以上の濃度で反応した.これを空気中濃度に換算するとおよそ10-5ppmである.既存のガスセンサの感度が数ppmであることと比べると,どちらも非常に高感度のセンサであるといえる.また自作アンプで触角電位を計測できることを示した.

 センサの寿命に関してはどちらのセンサとも約80分であった.

 次に3種類の異なるプログラムを用いてフェロモン・プルーム内のロボットの動きをシミュレートし,さらに実機によって実験した.その結果フリップ・フロップのような状態の一時記憶を持つRNNが実際のフェロモン・プルーム内では非常にうまく動くことを明らかにした.

 今後は,本研究で製作したロボットを本物のカイコガと同程度のサイズまで小型化し実験を行うことにより,カイコガの定位行動についてより実物に近い環境での考察が期待できる.さらには「シンセシスによる生物の行動発現のメカニズムの解明」も,現在よりもっともっと深いレベルで行えると思われる.

参考文献[1] Yoshihiko Kuwana,Isao Shimoyama,and Hirofumi Miura, "Steering Control of a Mobile Robot Using Insect Antennae,"Proceedings of the 1995 IEEE/RSJ International Conference on Intelligent Robots and Systems(IROS 95),pp.530-535,1995.[2]Ryohei Kanzaki,Naoko Sugi,and Tatsuaki Shibuya,"Self Generated Zigzag Turning of Bombyx mori Males during Pheromone-mediated Upwind Walking,"Zoological Science,Vol.9,pp.515-527,1992.[3]Edmund A.Arbas,Mark A.Willis,and Ryohei Kanzaki,"Organization of Goal-Oriented Locomotion:Pheromone-Modulated Flight Behavior of Moths,"Biological Neural Networks in Invertebrate Neuroethology and Robotics(Eds.Randall Beer et al.),Academic Press,1993.
審査要旨

 本論文は「カイコガにおける行動発現機構の人工的統合」と題し、6章からなっている。論文の目的は「生体と機械のハイブリッドなシステム」を使って昆虫の反射的で定型的な行動を説明することであり、その結果はロボット、とくにマイクロロボットの制御に応用できるとしている。

 具体的な昆虫の行動としては雄のカイコガの雌に対する定位行動をとりあげている。雄のカイコガは、雌のフェロモンをたよりに雌にたどりつく。カイコガの触角はフェロモンを検出するきわめて高感度なガスセンサである。触角に入ったフェロモン刺激の情報からカイコガがいかに反応するかは、神経生理学的な方法で分析的に研究されてきてはいるが、カイコガがなぜ定位行動をとるかは説明できていない。本論文では、カイコガの触角を使ったフェロモンセンサを移動ロボットに取り付け、実際のフェロモン分布環境下で、ロボットのプログラムから発現するロボットの行動と実際のカイコガの行動を比較して、カイコガの行動発現メカニズムを説明しようとしている。

 第1章「序論」では、本論文の目的と従来の研究が述べられている。カイコガの触角を単発的にフェロモン刺激すると、カイコガはジグザグ歩行を繰り返した後、回転歩行することが神経行動学的には明らかになっている。これらの一連の協調行動は、1回のフェロモン刺激により誘発され、刺激がなくなっても一連の行動が完了するまで続けられる。このことは、フリップフロップに似た記憶機構がカイコガの脳内に存在していることを示唆していて、これが本論文の出発点であることが述べられている。

 第2章「生体現象の電気的測定」では、本論文の基礎となる、カイコガの触角電位をとるために必要な電気生理の手法が述べられている。

 第3章「フェロモン・センサと実験システム」では、カイコガの触角を利用したフェロモンセンサの製作方法を述べている。カイコガの触角を切り出してその両端から電極を通して触角電位を拾い、アンプで信号を増幅すればロボットのセンサとして利用できるものになることが示されている。

 第4章「センサの性能評価」ではフェロモンセンサの性能を評価するために、フェロモン濃度をパラメータとして触角電位を計測している。さらに、このセンナの寿命とダイナミックレンジを計測している。本論文のフェロモンセンサの感度は10-5ppm以上、寿命は80分、ダイナミックレンジは0.2Hz以下という結果を得ている。このフェロモンセンサの感度は既存のガスセンサに比べ、103-105倍ほど高感度である。

 第5章「フェロモン場中におけるロボットの行動」では、フェロモンセンサを移動ロボットにとりつけ、フェロモン刺激によってロボットを動かす実験を行っている。ロボットの行動を決めるプログラムは、ニューラルネットワークで記述されている。ネットワークは、単純反射型ネットワークと、フィードバックをもつリカレントニューラルネットワークの2種類である。ニューラルネットワークの結合はシミュレーションに基づく遺伝アルゴリズムと、神経行動学的解析結果に基づくヒューリスティクな方法の2つで決めている。実験の結果、ヒューリスティックな方法で得られたリカレントニューラルネットワークを用いると、ロボットはジグザグ歩行と回転歩行を繰り返して、フェロモン源に到達した。その動きの様子は、雄カイコガの動きと極めてよく似ていた。さらに、シミュレーションを行って、実験結果と比較しているが、両者は一致していない。この理由はシミュレーションに使うフェロモン分布や触角のモデルが実際のものとは異なるためであるが、これを一致させることは困難である。この点で、実環境下で実際の触角と人工的なプログラムを使った行動発現システムを使えば、シミュレーションに比べて信頼できる結果が得られるといっている。

 第6章「結論」では、以上で得られた結果をまとめ、カイコガのフェロモンに対する定位行動を説明している。

 以上を要するに、本論文では、まず生体と機械からなるハイブリッドなシステムを使って、実環境下で行動を発現させる手法を提案している。さらに、刺激によって起動する固定的な行動プログラムと、フェロモン刺激を記憶するメモリ機能によって雌カイコガへの定位行動が発現していることをハイブリッドシステムで実験により示している。行動プログラムはフェロモンが触角にあたるごとに再起動され、ジグザグ歩行を繰り返した後回転歩行するものである。また、複雑なフェロモン分布が行動の複雑さを引き起こしていることも示唆しており、本論文は、工学と生物学の境界領域を切り開く独創的なものといえる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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