センチニクバエの幼虫に傷を付けると、体液中に一群の抗菌性物質が誘導されることが知られる。しかし、生存する環境が著しく違えば、感染してくる病原体も、これに応ずる生体防御機構も異なることが予想される。このような考えから、センチニクバエ成虫より新たな抗菌物質を検索したのが本研究の発端である。未知の抗菌活性画分を精製した結果、従来の抗菌物質とは構造も作用メカニズムも全く異なる新規化合物であった。 この論文は全7章より構成される。前半第3章までは、抗菌物質5-S-GAD (略称)の同定、構造解析と合成標品による活性の確認に至るまでの物理化学、有機化学的手法を駆使した研究について報告している。後半第4章からはその作用メカニズムや生合成経路の生化学的な解析の報告で、これらの結果より5-S-GADの昆虫生体防御機構における位置づけを試みている。 (第1章)大腸菌を塗布した注射針で傷を付けたセンチニクバエ成虫のホモジネートを出発材料に抗菌物質の精製を行った。ODSフレッシュカラムクロマトグラフィーにて0.05%TFA/10%CH3CNで溶出される活性画分は、既にセンチニクバエの幼虫から精製された抗菌蛋白群の活性画分とは分離されていた。この画分をC18逆相カラム、carbon-500順相カラムのクロマトグラフィーにより、活性と対応する単一のピークにまで精製した。 (第2章)高分解能FAB-MS分析や他の分光学的解析により、分子量574.1804(M+H)+で分子組成式がC22H31N5O11Sの化合物と同定された。更に行ったNMR等により部分構造としてグルタミン酸、グリシン、ベーターアラニン、システイン、ジヒドロキシフェニルアラニン(ドーパ)の5つのアミノ酸を持つ新規のペプチド性化合物、N-ベータ-アラニル-5-S-グルタチオニル-3,4-ジヒドロキシフェニルアラニン(5-S-GAD)であることが明らかとなった(Fig.1参照)。 Fig.1 Structure of 5-S-GAD (第3章)続いて有機化学的手法及び酵素反応を用い5-S-GADの合成を行った。液相法により合成したN-ベータ-アラニルドーパの5位炭素とグルタチオンとの間にキノコのチロシナーゼを用いた酵素反応によりスルフィド結合を導入し、5-S-GADを合成した。合成品とハエからの精製標品とは、C18逆相HPLCにて同じ溶出時間に検出され、他の分光学的データも一致した。また抗菌活性も両者で同じ比活性を有した。以上より決定した5-S-GADの構造は正しく、そのもの自体が抗菌活性を担う実体であることを明らかにした。 (第4.5章)5-S-GADの抗菌スペクトルから、グラム陽性菌、陰性菌の双方に作用することが分かった。5-S-GADの部分構造体5-S-システイニルドーパ(5-S-CD)の抗腫瘍活性がH2O2の発生を介することに着目し、5-S-GADの抗菌活性はH2O2の殺菌作用によるのではないかと考えた。カタラーゼ添加条件下で5-S-GADの抗菌活性を調べた結果、添加量依存に活性が減少することがわかった。また、抗菌活性以外の生物学的作用として、5-S-CD同様の抗腫瘍活性を示すことを示した。更に、いくつかのチロシンキナーゼに対して阻害活性を有することが示唆されたが、生体における意義は、更なる解析を待たねばならない。 (第6章)センチニクバエでは体表傷害時に細胞内グルタチオン濃度が減少し、また体液中にはベーターアラニルドーパの前駆体ベーターアラニルチロシンが存在することが、既に明らかにされていた。そこで、5-S-GADが、細胞外に放出されたグルタチオンとベーターアラニルドーパとからチロシナーゼにより合成される経路を考えた。チロシナーゼ活性を有するフェノール酸化酵素の体液中での活性について調べた結果、体表傷害の刺激前後で増大が見られた。厳密な5-S-GADの定量はしていないが、部分精製した活性画分の解析から、体表傷害の刺激で約10倍増加することを示し、このような生合成経路が妥当であることを考察した。フェノール酸化酵素の活性化は、体液性抗菌物質群と並んで昆虫の体液性生体防御の一翼を担う機構であるが、両者を結びつける因子としてこの5-S-GADはユニークな存在である。 (第7章)一群の抗菌蛋白の遺伝子発現に、H2O2により活性化される転写因子NFkB様因子が関与することが近年解析されつつある。5-S-GADは、それ自身が抗菌活性を有し直接異物に作用する以外に、H2O2の産生を介して他の生体防御遺伝子の活性化にも関わる可能性について考察した。 以上この学位論文は、精製した新規抗菌物質の構造を解析し、その生物学的機能と作用メカニズムについて記載し、昆虫生体防御機構とその制御に関する新たなkey moleculeを提起したもので、比較免疫学及び細胞生物学の進展に大きく寄与するものであり、博士(薬学)の学位に相当するものと判断した。 |