学位論文要旨



No 111530
著者(漢字) 林,載允
著者(英字)
著者(カナ) イム,ジェユン
標題(和) センチニクバエ成虫からの新規抗菌物質N--アラニル-5-S-グルタチオン-3,4-ジヒドロキシフェニルアラニンの精製と性状解析及び合成
標題(洋) Purification,Characterization and Synthesis of N--Alany1-5-S-Glutathiony1-3,4-Dihydroxyphenylalanine,a Novel Antibacterial Substance of Sarcophaga peregrina Adult
報告番号 111530
報告番号 甲11530
学位授与日 1995.09.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第731号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 名取,俊二
 東京大学 教授 嶋田,一夫
 東京大学 助教授 鈴木,利治
 東京大学 助教授 新井,洋由
 東京大学 助教授 内藤,幹彦
内容要旨

 生物個体が恒常性を維持しながら生存する上で、自己と非自己を明確に分かつことは必須であり、異物の侵入から生体を防御する機構を備えることは極めて重要であると考えられる。

 脊椎動物とは異なり抗体産生能を持たない昆虫では、生体防御の一つの機構として、幼虫体液中の血球凝集素や抗菌蛋白質等による異物排除が示されつつある。例えばセンチニクバエ(Sarcophaga peregrina)の幼虫ではグラム陰性菌に有効なザルコトキシンとグラム陽性菌に有効なザーペシンという抗菌蛋白等が見いだされている。これらは体壁傷害の刺激でその遺伝子の発現を介して合成が誘導され、侵入したバクテリアの細胞膜に致死的に作用することにより異物の排除に協調的に働くことが明らかにされている。

 昆虫のもつ生体防御機構を更に解明する目的で私はセンチニクバエの成虫より新たな抗菌物質を検索したところ、未知の活性画分を見出し精製した。更にこの新規化合物の構造と作用メカニズムの解析を行ったので、以下に報告する。

1。抗菌物質の精製

 センチニクバエ成虫より抗菌活性を誘導させるために成虫腹部に大腸菌K-12594(strr)株を塗布した針で傷をつけた。27℃で16時間飼育した後、プロテアーゼ阻害剤のアブロチニンを含む0.1%TFAを加え、ホモジナイズした。超遠心操作後、その上清をろ過して精製の出発材料とした。次にステップワイズで逆相カラムクロマトグラフィーを行った。この段階で既にセンチニクバエの幼虫から精製された抗菌蛋白群とは異なる活性画分を得た。続いてこの活性画分をHPLCシステムによりC18逆相カラムクロマトグラフィー、carbon-500順相カラムクロマトグラフィーを行い、活性と対応する単一のピークを得た(Table 1)。

Table 1. Summary of purification of 5-S-GAD
2。抗菌物質の構造解析

 高分解能FAB-MS分析の結果、この抗菌物質は分子量が574.1804(M+H)+で、分子組成式がC22H31N5O11Sの化合物であることがわかった。この分子式はESCA,13C-NMR,1H-NMR分析等の分光学的解析でも確認された。

 DQF-COSYとHOHAHAスペクトルによりスピン系を解析し、又、1H-13CHSQCにより水素と炭素との相関を決定した。その結果、部分構造としてグルタミン酸、グリシン、-アラニン、システイン、3,4-ジヒドロキシフェニルアラニン(ドーパ)を持つことが分かった。この結果は、アミノ酸組成分析の結果と合致していた。

 更に、HMBCスペクトルで観察されたlong range couplingの解析によりこれらのアミノ酸の結合様式を解析した。また、1H-15NHSQCによりグルタミン酸と-アラニンが1級アミンとして存在することが分かった。これらの解析から最終的にこの物質は新規のペプチド性化合物、N--アラニル-5-S-グルタチオニル-3,4-ジヒドロキシフェニルアラニンであることが明らかとなった(Fig.1)。以下、この抗菌物質を5-S-GADと表記する。

3。5-S-GADの合成

 決定した5-S-GADの構造が正しく、これが抗菌活性を有する実体であることを確認する目的で、化学的手法及び酵素反応を用いて5-S-GADの合成を行った。先ず液相法によりN--アラニルドーパを合成した。次にキノコのチロシナーゼを用いた酵素反応によりグルタチオンとドーパの5位炭素との間にスルフィド結合を導入し、最終的に5-S-GAD合成に成功した(Fig.2)。

図表Fig.1 Structure of 5-S-GAD / Fig.2 Scheme of Synthesis of N--Alanyl 5-S-Glutathionyl Dopa

 合成品とハエからの精製標品とを同時にC18逆相HPLCにて分析した結果、同じ溶出時間に検出された(Fig.3)。UV、IR、旋光度、NMR、FAB-MS等の他の分光学的データも一致した。次に抗菌活性の比較を行った結果、同じ非活性を示した(Fig.4)。このことより決定した5-S-GADの構造は正しく、そのもの自体が抗菌物質であることを明らかにした。

図表Fig.3 RP-HPLC profile of 5-S-GAD / Fig.4 Comparison of antibacterial activity of synthesized and purified 5-S-GAD
4。5-S-GADの生物活性と作用メカニズム

 5-S-GADの作用メカニズムを知る目的で、まず抗菌スペクトルを調べた。その結果、E.coli K-12 594(strr)に加え、M.luteus FDA16やS.aureus IFO12732の増殖を各々26M、17M、31Mの濃度で50%阻害した。これより、5-S-GADは、グラム陽性菌のみならず陰性菌にも作用することが分かった。

 5-S-GADの既知の構造類似体に関する抗菌活性は知られていないが、メラノーマ患者より過剰代謝される5-S-システイニルドーパ(以下、5-S-CDと略す)については抗腫瘍活性を持ち、その作用はH2O2の発生を介することが知られている。そこで、 5-S-GADの 抗菌活性の作用メカニズムもH2O2を介しているのではないかと考え、H2O2を加水分解する酵素カタラーゼを添加して、 5-S-GADの抗菌活性を調べた。その結果、添加量依存に抗菌活性が減少し、 カタラーゼ125g/mlを加えることにより5-S-GAD30g/mlの抗菌活性は完全に消失した(Fig.5)。 これより、5-S-GADの抗菌活性はH2O2を介する事が強く示唆され、既知の抗菌蛋白の作用機序とは異なる事が明らかとなった。

Fig.5 Effect of catalase on the antibacterial activity of 5-S-GAD

 更に、5-S-CDと同様の抗腫瘍活性を有する可能性についてMTT法で調べた結果、Ehrlich、IMC ca細胞など、いくつかの癌細胞株の増殖を有意に阻害することが分かった。

まとめと考察

 センチニクバエ成虫から大腸菌への抗菌活性を指標に、新しい抗菌物質を分離、精製した。この物質は、分子量573の新規のペプチド性化合物、N--アラニルー5-S-グルタチオニル-3,4-ジヒドロキシフェニルアラニン(5-S-GAD)であり、合成5-S-GADを用いた解析から、この構造が抗菌活性をもつ実体であることを明らかにした。更に5-S-GADの作用メカニズムは既知のセンチニクバエ合成の抗菌蛋白群とは異なり、H2O2を介して殺菌的に作用することを示唆した。

 5-S-GADの構造から考察すると、この化合物は既知の抗菌蛋白のように遺伝子発現を介して合成されるのではなく、2次的に代謝され生合成されるものと考えられる。昆虫の感染防御機構の一つとしてフェノール酸化酵素の活性化が知られている。この知見に加え、センチニクバエでは、体表障害時に抗菌蛋白を合成する組織、脂肪体の細胞内のグルタチオン濃度が減少すること、体液中に-アラニルチロシンが存在することを考慮すると、5-S-GADはグルタチオンと、-アラニルチロシンとからフェノール酸化酵素により合成されると考えられる。

 また、抗菌蛋白の遺伝子発現に、H2O2により活性化される転写因子が関与することが解析されつつある。5-S-GADは、それ自身が抗菌活性を有する以外に、他の生体防御機構の活性化にも関わるkey moleculeである可能性が指摘できる。今後、 5-S-GADの生物学的意味の解明は単に無脊椎動物にとどまらず、生物一般の生体防御機構の理解を探究する上においても重要な手がかりになると考える。

審査要旨

 センチニクバエの幼虫に傷を付けると、体液中に一群の抗菌性物質が誘導されることが知られる。しかし、生存する環境が著しく違えば、感染してくる病原体も、これに応ずる生体防御機構も異なることが予想される。このような考えから、センチニクバエ成虫より新たな抗菌物質を検索したのが本研究の発端である。未知の抗菌活性画分を精製した結果、従来の抗菌物質とは構造も作用メカニズムも全く異なる新規化合物であった。

 この論文は全7章より構成される。前半第3章までは、抗菌物質5-S-GAD (略称)の同定、構造解析と合成標品による活性の確認に至るまでの物理化学、有機化学的手法を駆使した研究について報告している。後半第4章からはその作用メカニズムや生合成経路の生化学的な解析の報告で、これらの結果より5-S-GADの昆虫生体防御機構における位置づけを試みている。

 (第1章)大腸菌を塗布した注射針で傷を付けたセンチニクバエ成虫のホモジネートを出発材料に抗菌物質の精製を行った。ODSフレッシュカラムクロマトグラフィーにて0.05%TFA/10%CH3CNで溶出される活性画分は、既にセンチニクバエの幼虫から精製された抗菌蛋白群の活性画分とは分離されていた。この画分をC18逆相カラム、carbon-500順相カラムのクロマトグラフィーにより、活性と対応する単一のピークにまで精製した。

 (第2章)高分解能FAB-MS分析や他の分光学的解析により、分子量574.1804(M+H)+で分子組成式がC22H31N5O11Sの化合物と同定された。更に行ったNMR等により部分構造としてグルタミン酸、グリシン、ベーターアラニン、システイン、ジヒドロキシフェニルアラニン(ドーパ)の5つのアミノ酸を持つ新規のペプチド性化合物、N-ベータ-アラニル-5-S-グルタチオニル-3,4-ジヒドロキシフェニルアラニン(5-S-GAD)であることが明らかとなった(Fig.1参照)。

Fig.1 Structure of 5-S-GAD

 (第3章)続いて有機化学的手法及び酵素反応を用い5-S-GADの合成を行った。液相法により合成したN-ベータ-アラニルドーパの5位炭素とグルタチオンとの間にキノコのチロシナーゼを用いた酵素反応によりスルフィド結合を導入し、5-S-GADを合成した。合成品とハエからの精製標品とは、C18逆相HPLCにて同じ溶出時間に検出され、他の分光学的データも一致した。また抗菌活性も両者で同じ比活性を有した。以上より決定した5-S-GADの構造は正しく、そのもの自体が抗菌活性を担う実体であることを明らかにした。

 (第4.5章)5-S-GADの抗菌スペクトルから、グラム陽性菌、陰性菌の双方に作用することが分かった。5-S-GADの部分構造体5-S-システイニルドーパ(5-S-CD)の抗腫瘍活性がH2O2の発生を介することに着目し、5-S-GADの抗菌活性はH2O2の殺菌作用によるのではないかと考えた。カタラーゼ添加条件下で5-S-GADの抗菌活性を調べた結果、添加量依存に活性が減少することがわかった。また、抗菌活性以外の生物学的作用として、5-S-CD同様の抗腫瘍活性を示すことを示した。更に、いくつかのチロシンキナーゼに対して阻害活性を有することが示唆されたが、生体における意義は、更なる解析を待たねばならない。

 (第6章)センチニクバエでは体表傷害時に細胞内グルタチオン濃度が減少し、また体液中にはベーターアラニルドーパの前駆体ベーターアラニルチロシンが存在することが、既に明らかにされていた。そこで、5-S-GADが、細胞外に放出されたグルタチオンとベーターアラニルドーパとからチロシナーゼにより合成される経路を考えた。チロシナーゼ活性を有するフェノール酸化酵素の体液中での活性について調べた結果、体表傷害の刺激前後で増大が見られた。厳密な5-S-GADの定量はしていないが、部分精製した活性画分の解析から、体表傷害の刺激で約10倍増加することを示し、このような生合成経路が妥当であることを考察した。フェノール酸化酵素の活性化は、体液性抗菌物質群と並んで昆虫の体液性生体防御の一翼を担う機構であるが、両者を結びつける因子としてこの5-S-GADはユニークな存在である。

 (第7章)一群の抗菌蛋白の遺伝子発現に、H2O2により活性化される転写因子NFkB様因子が関与することが近年解析されつつある。5-S-GADは、それ自身が抗菌活性を有し直接異物に作用する以外に、H2O2の産生を介して他の生体防御遺伝子の活性化にも関わる可能性について考察した。

 以上この学位論文は、精製した新規抗菌物質の構造を解析し、その生物学的機能と作用メカニズムについて記載し、昆虫生体防御機構とその制御に関する新たなkey moleculeを提起したもので、比較免疫学及び細胞生物学の進展に大きく寄与するものであり、博士(薬学)の学位に相当するものと判断した。

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