日本経済の優れたパフォーマンスのミクロ的要因として、日本企業の効率的な経営が挙げられる。特に、近年日本企業と欧米企業に関する比較研究はさまざまな面からなされ、その中で、日本企業の目的関数が欧米のそれと異なり、日本企業の経営者は異なるインセンティヴに基づいて企業を運営し、欧米企業に比べより高成長を志向するとの主張が広く支持されている。 1990年以降、地価、株価の暴落で日本的経営が一転して批判の的となっている。例えば、株主軽視、経営者の暴走の歯止めをかけるために株主の権限を強化しなければならないという主張は台頭しつつある。 しかしながら、日本企業の経営者、特にトップ経営者の報酬に関するデータの入手可能性の制約で、日本企業における経営者インセンティブないし経営目的に関する実証分析および欧米との比較研究は、十分に行われているとは言えない。本論文の目的は、日本の企業が一体誰のものか、言い換えれば、日本企業の経営者は、どのようなインセンティブに基づいて企業を運営しているのかという疑問に一つの実証的解答を与えることにある。 企業の所有形態に関して、主に以下の議論がある。まず、新古典的経済学理論において、企業が株主のもので、経営を経営の専門家である経営者に任せる必要がある場合、すなわち経営(control)と所有(ownership)が分離する場合、株主と経営者との関係は依頼人(principal)と代理人(agent)のagency関係にあると想定されている。このモデルでは、principalである株主はagentである経営者の日頃の経営活動をコントロールしたり、モニタリングしたりすることが不可能であるか、ないしは非常に非効率的であるとされているので、株主と経営者の間の利害の不一致が生じることになる。この時、もし事後の経営結果しか観察出来なければ、株主と経営者の間に事後の結果に依存する契約が結ばれ、株主は契約を通じて経営者にインセンティブを与えて、自分の利益を最大化しようとする。われわれはこの仮説を株主所有仮説と呼ぶ。 一方、上述した契約理論に対して、日本の企業が労働者管理型企業と類似の特徴を濃厚に持っている準労働者管理型企業であるとの主張も存在する。準労働者管理型企業仮説において、企業の目的は、従業員一人当りの報酬を最大化することである。なお、上述した準労働者管理型企業理論では主権者である従業員と経営者のagency関係が明確に分析されていない。ここで、先に触れた新古典的経済学理論で分析されたように、仮に日本企業が準労働者管理型企業であるとすれば、従業員は企業の日頃の経営に口をはさんだり、経営者の行動を命令したり、常時経営者をモニタリングしたりすることはまずないだろうと考られ、つまり、準労働者管理型企業における従業員と経営者との関係が、株主所有仮説における株主と経営者の関係と同じように、principalとagentの関係にあると考えられる。この時、企業の主権者である従業員は経営者と自分の事後の報酬に依存する契約を結び、経営者にインセンティブを与えなければならない。われわれはこの仮説を労働者管理仮説と呼ぶ。 第1章では、われわれは上述したagency理論に基づく二つの仮説を念頭において、日本企業のトップ経営者、とりわけ、社長の金銭的報酬と企業のパフォーマンスとの関連を、サンプル・データを用いて回帰分析で解明し、以下のことをテストして二つの仮説の妥当性を検討する。もし、株主所有仮説が真であれば、自己資本収益率が社長報酬に対して重要な効果を持ち、逆に従業員の平均報酬が労働市場の需給条件によって決定されるから、社長報酬に影響を及ぼさない。他方、労働者管理仮説が成立すれば、社長報酬に対して、従業員の平均報酬が重要な効果を持つが、自己資本収益率が資本市場の均衡によって決定される外生変数で、社長報酬に対して有意な効果を持たない。日本企業の社長の報酬を決定する要因に関する計量分析結果は、以下の通りである。 社長の報酬の決定要因として、自己資本経常利益率と並びに社長在職年数、売上高は5%の水準で有意であるが、従業員の平均報酬は5%の水準で統計的に有意ではないという結論になっている。しかも、株主所有仮説に基づくモデルの推計結果が準労働者管理型企業モデルのそれと比較して非常に安定していることも明らかにされており、前者のadj.R2が後者のを上回ることにもなっている。従って、agency理論に基づく株主所有仮説は準労働者管理型仮説より、説明力が強く、十分な現実妥当性を持つと思われる。 社長の所得が自己資本経常収益率から強い影響を受けることと対照的に、従業員平均所得は自己資本経常利益率から統計的に有意の影響を受けないことも明らかにされている。この事実は従業員の賃金決定の横並び方式ないし相場賃金説にと一致する。結論は、日本企業が誰のものであるか、ないしは日本企業における経営者インセンティブという基本問題に関して、日本で広く支持される準労働者管理型仮説は必ずしも現実とは一致しないことを示唆する。 第1章で株主利益が経営者インセンティブに織り込まれることを確認された。株主利益がどのように経営者インセンティブに織り込まれるのかを分析するために、第2章では、われわれは経営者の行動に関する情報の非対称性を念頭に置き、agency理論の応用に基づいて、日本企業のトッブ経営者、とりわけ、役員の平均賞与と企業のパフォーマンス(純利益ないし自己資本純利益率)との関連を実証分析する。サンプル・データは自動車、鉄鋼、セメントとカメラの4産業の1970年度から1990年度までの有価証券報告書から計算したものである。 現在まで、役員所得は報酬と賞与に分けて分析されていないが、本研究では役員所得を役員報酬と役員賞与に分解して分析している。これは、過去の研究では賃金ないし定期給与に比べて賞与が収益変数により弾力的だといわれているからである。また、役員賞与の決定と比較するために、役員平均報酬及び平均所得の決定要因も分析されている。結論は次の通りである。 まず、どの産業でも役員賞与は企業収益に強く依存し、企業収益の変化に対してきわめてflexibleに変動していることが分かる。一方、役員平均賞与が企業収益に強く依存することに対して、役員平均報酬は企業売上高すなわち規模変数に強く依存することになっている。セメント産業を除いて、自動車、鉄鋼、カメラの3産業では、企業収益は10%レベルで有意ではないが、企業規模が同レベルで統計的に有意な効果を持っており、企業収益より影響力が強い。したがって、役員賞与と報酬の決定要因には根本的な相違が存在していると考えられる。役員平均所得(平均報酬+平均賞与)の決定要因については、どの産業でも企業収益性は重要な効果を持っていることが分かる。このほかには、役員所得には企業収益及び売上高が重要な効果を持っていることは4産業に共通であるが、役員賞与については産業間格差が見出され、役員平均賞与の決定に売上高は統計的に有意な効果を持たない産業があることが確認された。 すると、所有と経営の分離によって経営者は自社の経営に裁量の余地を持っているため、経営者所得は企業収益ないし収益率より企業規模に強く依存するという議論は、役員報酬と役員賞与に分けてもう一度吟味する必要があるであろう。少なくとも、われわれの分析では、役員賞与の決定要因として、企業規模よりも企業収益性の効果が強いと言えよう。つまり、役員賞与はインセンティヴ装置として役割を果たしていることが十分に考えられる。また、役員所得が企業規模に強く依存することについては、内部労働市場からもう一度分析する必要があると思われる。 第2章の結論を掘り下げて分析するために、第3章ではわれわれはトーナメント競争による企業内部昇進と経営者インセンティブを内部労働市場におけるインセンティブ・システムとして捉え、新しい角度から役員報酬(定期給与)と役員賞与の役割を分析する。 まず、サラリーマン、とりわけ、ホワイトカラーは入社してから周りの同僚と上位ポストをめぐって激しく競争していかなければならない。最後のトーナメントを勝ち抜いた人のみが社長の座に昇りつめ、出世頭になる。これは、洋の東西を問わず共通している点である。この意味で、給与体系はトーナメント賞金の側面を帯びている。 トーナメントは多段階に分けられているが、企業規模が大きくなるにつれてトップの座、すなわち、役員に昇進できる確率は次第に小さくなっていき、企業規模と昇進確率の間に負の相関が存在する。すると、役員ポストがトーナメント競争のために設定されるものであれば、従業員から適切な労働インセンティヴを与えるために、大企業の社長の椅子の座り心地の良さは増さなければならない。多くの研究で確認されたトップ経営者の所得に対する企業規模の効果は見せかけ上のものに過ぎない。 一方、通常のゴルフ、テニスなどのトーナメントと違って、最後のトーナメントで優勝した数少ない優勝者、すなわち、トップ経営者に次のトーナメントが待ち受けていることはない。そこで、トップ経営者に適切なインセンティヴを与えるために、エージェンシー契約をオファーされることが考えられる。もちろん、現実には経営者は自ら契約をコミットすると考えるべきである。いずれにしても、役員賞与はエージェンシー契約として役割を果たしていると思われる。こうして、トーナメント競争の給与体系と役員賞与という2つのインセンティヴ装置によって、企業内部の競争システムが完結されることになる。 トーナメント競争と経営者所得との関連については、給与体系全体に関するデータの入手可能性が乏しいため、実証分析はあまり見あたらない。第3章においては、われわれは簡単なモデルでこの問題を分析し、導かれた結論を東証1部上場の機械・電機産業の1982年度から1990年度の9年間にわたる690社年のデータを用いてテストする。 結論は、売上高、従業員数などの企業規模により、役員給与と男子常用労働者平均給与との倍率の対数値は男子常用労働者数と役員数との比率に強く依存するとなっている。男子常用労働者数と役員数との比率をトーナメント競争の激しさを表した指標として考えられるため、この結果は日本企業において、給与体系にトーナメント競争が反映されることを示唆する。 一方、企業別男子常用労働者の平均給与は、賃金センサスでの男子常用労働者の平均給与の指標に強く依存する。これはわれわれのモデルから導かれた若年従業員と昇進させられなかった従業員の賃金は外部労働市場あるいは労働市場の逼迫状況によって大きく左右されるという結論、すなわち通常言われている世間相場また横並び現象と整合的である。役員平均賞与については、配当、企業会計利益などの変数は統計的に重要、影響力が強く、企業規模は有意の効果を持っていない。 この論文では、われわれは企業内昇進と役員給与の関係、企業全体の給与体系とトーナメントの関連及び内部労働市場における経営者インセンティヴの位置づけを、労働インセンティブと経営インセンティブを一貫したシステムとして理論的・実証的に分析した。結論は、役員給与と役員賞与はそれぞれ異なる役割を担う。具体的に、役員給与は、企業内の長期的なトーナメントを通じる競争が成立するためのトーナメント競争での優勝者に対する褒美として設定され、役員賞与は"出世頭"にインセンティヴを与えるための装置として役割を果たす。両者によって内部労働市場のインセンティヴは、首尾よく形成されることになる。 この論文では、われわれは株主利益がどのように経営者インセンティブに織り込まれるかを中心に実証分析を行った。繰り返して強調しておきたいが、制度上日本企業の株主総会の形骸化、株持ち合いなどの現象がよく指摘されており、そのためM&Aなどを背景とした資本市場からの利潤最大化の圧力が弱いと思われている。しかし、このことを直ちに日本企業の経営者が利潤を追求するインセンティヴに欠けており、株主利益が無視されていると結び付けるのは、早急すぎる嫌いがあるのではなかろうか。逆に、金銭的インセンティヴを補う資本市場からの圧力が弱いからこそ、経営者の金銭的インセンティヴが所得の面で強められていると考えなければならない。また、役員の更迭に関する実証分析で明らかにされたように、むしろ日本企業のほうは内部ガバナンスが強く働くという結論も無視できない。日本企業のコーポレート・ガバナンスに関連する制度改革のあらゆる提案は、このような事実を念頭において行われなければならない。 |