学位論文要旨



No 111490
著者(漢字) 胥,鵬
著者(英字) Xu,Peng
著者(カナ) ショ,ホウ
標題(和) 日本企業における労働インセンティブと経営インセンティブ
標題(洋)
報告番号 111490
報告番号 甲11490
学位授与日 1995.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第92号
研究科 経済学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三輪,芳朗
 東京大学 教授 石川,經夫
 東京大学 教授 森,建資
 東京大学 教授 金本,良嗣
 東京大学 助教授 松島,斉
内容要旨

 日本経済の優れたパフォーマンスのミクロ的要因として、日本企業の効率的な経営が挙げられる。特に、近年日本企業と欧米企業に関する比較研究はさまざまな面からなされ、その中で、日本企業の目的関数が欧米のそれと異なり、日本企業の経営者は異なるインセンティヴに基づいて企業を運営し、欧米企業に比べより高成長を志向するとの主張が広く支持されている。

 1990年以降、地価、株価の暴落で日本的経営が一転して批判の的となっている。例えば、株主軽視、経営者の暴走の歯止めをかけるために株主の権限を強化しなければならないという主張は台頭しつつある。

 しかしながら、日本企業の経営者、特にトップ経営者の報酬に関するデータの入手可能性の制約で、日本企業における経営者インセンティブないし経営目的に関する実証分析および欧米との比較研究は、十分に行われているとは言えない。本論文の目的は、日本の企業が一体誰のものか、言い換えれば、日本企業の経営者は、どのようなインセンティブに基づいて企業を運営しているのかという疑問に一つの実証的解答を与えることにある。

 企業の所有形態に関して、主に以下の議論がある。まず、新古典的経済学理論において、企業が株主のもので、経営を経営の専門家である経営者に任せる必要がある場合、すなわち経営(control)と所有(ownership)が分離する場合、株主と経営者との関係は依頼人(principal)と代理人(agent)のagency関係にあると想定されている。このモデルでは、principalである株主はagentである経営者の日頃の経営活動をコントロールしたり、モニタリングしたりすることが不可能であるか、ないしは非常に非効率的であるとされているので、株主と経営者の間の利害の不一致が生じることになる。この時、もし事後の経営結果しか観察出来なければ、株主と経営者の間に事後の結果に依存する契約が結ばれ、株主は契約を通じて経営者にインセンティブを与えて、自分の利益を最大化しようとする。われわれはこの仮説を株主所有仮説と呼ぶ。

 一方、上述した契約理論に対して、日本の企業が労働者管理型企業と類似の特徴を濃厚に持っている準労働者管理型企業であるとの主張も存在する。準労働者管理型企業仮説において、企業の目的は、従業員一人当りの報酬を最大化することである。なお、上述した準労働者管理型企業理論では主権者である従業員と経営者のagency関係が明確に分析されていない。ここで、先に触れた新古典的経済学理論で分析されたように、仮に日本企業が準労働者管理型企業であるとすれば、従業員は企業の日頃の経営に口をはさんだり、経営者の行動を命令したり、常時経営者をモニタリングしたりすることはまずないだろうと考られ、つまり、準労働者管理型企業における従業員と経営者との関係が、株主所有仮説における株主と経営者の関係と同じように、principalとagentの関係にあると考えられる。この時、企業の主権者である従業員は経営者と自分の事後の報酬に依存する契約を結び、経営者にインセンティブを与えなければならない。われわれはこの仮説を労働者管理仮説と呼ぶ。

 第1章では、われわれは上述したagency理論に基づく二つの仮説を念頭において、日本企業のトップ経営者、とりわけ、社長の金銭的報酬と企業のパフォーマンスとの関連を、サンプル・データを用いて回帰分析で解明し、以下のことをテストして二つの仮説の妥当性を検討する。もし、株主所有仮説が真であれば、自己資本収益率が社長報酬に対して重要な効果を持ち、逆に従業員の平均報酬が労働市場の需給条件によって決定されるから、社長報酬に影響を及ぼさない。他方、労働者管理仮説が成立すれば、社長報酬に対して、従業員の平均報酬が重要な効果を持つが、自己資本収益率が資本市場の均衡によって決定される外生変数で、社長報酬に対して有意な効果を持たない。日本企業の社長の報酬を決定する要因に関する計量分析結果は、以下の通りである。

 社長の報酬の決定要因として、自己資本経常利益率と並びに社長在職年数、売上高は5%の水準で有意であるが、従業員の平均報酬は5%の水準で統計的に有意ではないという結論になっている。しかも、株主所有仮説に基づくモデルの推計結果が準労働者管理型企業モデルのそれと比較して非常に安定していることも明らかにされており、前者のadj.R2が後者のを上回ることにもなっている。従って、agency理論に基づく株主所有仮説は準労働者管理型仮説より、説明力が強く、十分な現実妥当性を持つと思われる。

 社長の所得が自己資本経常収益率から強い影響を受けることと対照的に、従業員平均所得は自己資本経常利益率から統計的に有意の影響を受けないことも明らかにされている。この事実は従業員の賃金決定の横並び方式ないし相場賃金説にと一致する。結論は、日本企業が誰のものであるか、ないしは日本企業における経営者インセンティブという基本問題に関して、日本で広く支持される準労働者管理型仮説は必ずしも現実とは一致しないことを示唆する。

 第1章で株主利益が経営者インセンティブに織り込まれることを確認された。株主利益がどのように経営者インセンティブに織り込まれるのかを分析するために、第2章では、われわれは経営者の行動に関する情報の非対称性を念頭に置き、agency理論の応用に基づいて、日本企業のトッブ経営者、とりわけ、役員の平均賞与と企業のパフォーマンス(純利益ないし自己資本純利益率)との関連を実証分析する。サンプル・データは自動車、鉄鋼、セメントとカメラの4産業の1970年度から1990年度までの有価証券報告書から計算したものである。

 現在まで、役員所得は報酬と賞与に分けて分析されていないが、本研究では役員所得を役員報酬と役員賞与に分解して分析している。これは、過去の研究では賃金ないし定期給与に比べて賞与が収益変数により弾力的だといわれているからである。また、役員賞与の決定と比較するために、役員平均報酬及び平均所得の決定要因も分析されている。結論は次の通りである。

 まず、どの産業でも役員賞与は企業収益に強く依存し、企業収益の変化に対してきわめてflexibleに変動していることが分かる。一方、役員平均賞与が企業収益に強く依存することに対して、役員平均報酬は企業売上高すなわち規模変数に強く依存することになっている。セメント産業を除いて、自動車、鉄鋼、カメラの3産業では、企業収益は10%レベルで有意ではないが、企業規模が同レベルで統計的に有意な効果を持っており、企業収益より影響力が強い。したがって、役員賞与と報酬の決定要因には根本的な相違が存在していると考えられる。役員平均所得(平均報酬+平均賞与)の決定要因については、どの産業でも企業収益性は重要な効果を持っていることが分かる。このほかには、役員所得には企業収益及び売上高が重要な効果を持っていることは4産業に共通であるが、役員賞与については産業間格差が見出され、役員平均賞与の決定に売上高は統計的に有意な効果を持たない産業があることが確認された。

 すると、所有と経営の分離によって経営者は自社の経営に裁量の余地を持っているため、経営者所得は企業収益ないし収益率より企業規模に強く依存するという議論は、役員報酬と役員賞与に分けてもう一度吟味する必要があるであろう。少なくとも、われわれの分析では、役員賞与の決定要因として、企業規模よりも企業収益性の効果が強いと言えよう。つまり、役員賞与はインセンティヴ装置として役割を果たしていることが十分に考えられる。また、役員所得が企業規模に強く依存することについては、内部労働市場からもう一度分析する必要があると思われる。

 第2章の結論を掘り下げて分析するために、第3章ではわれわれはトーナメント競争による企業内部昇進と経営者インセンティブを内部労働市場におけるインセンティブ・システムとして捉え、新しい角度から役員報酬(定期給与)と役員賞与の役割を分析する。

 まず、サラリーマン、とりわけ、ホワイトカラーは入社してから周りの同僚と上位ポストをめぐって激しく競争していかなければならない。最後のトーナメントを勝ち抜いた人のみが社長の座に昇りつめ、出世頭になる。これは、洋の東西を問わず共通している点である。この意味で、給与体系はトーナメント賞金の側面を帯びている。

 トーナメントは多段階に分けられているが、企業規模が大きくなるにつれてトップの座、すなわち、役員に昇進できる確率は次第に小さくなっていき、企業規模と昇進確率の間に負の相関が存在する。すると、役員ポストがトーナメント競争のために設定されるものであれば、従業員から適切な労働インセンティヴを与えるために、大企業の社長の椅子の座り心地の良さは増さなければならない。多くの研究で確認されたトップ経営者の所得に対する企業規模の効果は見せかけ上のものに過ぎない。

 一方、通常のゴルフ、テニスなどのトーナメントと違って、最後のトーナメントで優勝した数少ない優勝者、すなわち、トップ経営者に次のトーナメントが待ち受けていることはない。そこで、トップ経営者に適切なインセンティヴを与えるために、エージェンシー契約をオファーされることが考えられる。もちろん、現実には経営者は自ら契約をコミットすると考えるべきである。いずれにしても、役員賞与はエージェンシー契約として役割を果たしていると思われる。こうして、トーナメント競争の給与体系と役員賞与という2つのインセンティヴ装置によって、企業内部の競争システムが完結されることになる。

 トーナメント競争と経営者所得との関連については、給与体系全体に関するデータの入手可能性が乏しいため、実証分析はあまり見あたらない。第3章においては、われわれは簡単なモデルでこの問題を分析し、導かれた結論を東証1部上場の機械・電機産業の1982年度から1990年度の9年間にわたる690社年のデータを用いてテストする。

 結論は、売上高、従業員数などの企業規模により、役員給与と男子常用労働者平均給与との倍率の対数値は男子常用労働者数と役員数との比率に強く依存するとなっている。男子常用労働者数と役員数との比率をトーナメント競争の激しさを表した指標として考えられるため、この結果は日本企業において、給与体系にトーナメント競争が反映されることを示唆する。

 一方、企業別男子常用労働者の平均給与は、賃金センサスでの男子常用労働者の平均給与の指標に強く依存する。これはわれわれのモデルから導かれた若年従業員と昇進させられなかった従業員の賃金は外部労働市場あるいは労働市場の逼迫状況によって大きく左右されるという結論、すなわち通常言われている世間相場また横並び現象と整合的である。役員平均賞与については、配当、企業会計利益などの変数は統計的に重要、影響力が強く、企業規模は有意の効果を持っていない。

 この論文では、われわれは企業内昇進と役員給与の関係、企業全体の給与体系とトーナメントの関連及び内部労働市場における経営者インセンティヴの位置づけを、労働インセンティブと経営インセンティブを一貫したシステムとして理論的・実証的に分析した。結論は、役員給与と役員賞与はそれぞれ異なる役割を担う。具体的に、役員給与は、企業内の長期的なトーナメントを通じる競争が成立するためのトーナメント競争での優勝者に対する褒美として設定され、役員賞与は"出世頭"にインセンティヴを与えるための装置として役割を果たす。両者によって内部労働市場のインセンティヴは、首尾よく形成されることになる。

 この論文では、われわれは株主利益がどのように経営者インセンティブに織り込まれるかを中心に実証分析を行った。繰り返して強調しておきたいが、制度上日本企業の株主総会の形骸化、株持ち合いなどの現象がよく指摘されており、そのためM&Aなどを背景とした資本市場からの利潤最大化の圧力が弱いと思われている。しかし、このことを直ちに日本企業の経営者が利潤を追求するインセンティヴに欠けており、株主利益が無視されていると結び付けるのは、早急すぎる嫌いがあるのではなかろうか。逆に、金銭的インセンティヴを補う資本市場からの圧力が弱いからこそ、経営者の金銭的インセンティヴが所得の面で強められていると考えなければならない。また、役員の更迭に関する実証分析で明らかにされたように、むしろ日本企業のほうは内部ガバナンスが強く働くという結論も無視できない。日本企業のコーポレート・ガバナンスに関連する制度改革のあらゆる提案は、このような事実を念頭において行われなければならない。

審査要旨

 企業を典型とする経済組織を、投入資源を与えられた技術的スケジュールに従って生産物に変換する存在としてとらえる、つまり生産関数によって代表されるとして、そのうえで供給サイドの経済分析をすすめるのが伝統的立場として支配的であった。同一産業間の国際比較や、同一産業内の企業間比較から、著しい生産性の相違の存在、その長期間にわたる存続、さらに相対的立場がしばしば激変することが明らかになるにつれ、伝統的立場に対する不満が高まった。不満は、企業等の組織の作動メカニズムに対する関心として具体化し、企業・企業間関係・市場等の組織にかかわる組織の経済分析の大きな展開に結びついた。技術面での革新と同様、組織面での革新が経済発展の原動力になるに違いないという判断が共通の認識として大きな流れの底流に存在する。

 組織の経済分析としては多様な接近法が展開されつつある。本論文は、日本経済の優れたパフォーマンスを生みだしたミクロ的要因として、日本企業の効率的な経営に注目し、その組織原理と、それが基づくインセンティブ・システムの機能に関して、理論的・実証的に分析している。なかでも、経営者に与えられるインセンティブに注目しているが、後述のように、経営者の地位は入社後のトーナメントの結果として与えられるから、経営者のインセンティブに関する研究が、組織メンバー全体に関わるインセンティブの体系を代表していることになる。組織に関する研究、とりわけインセンティブ・システム、なかでもトーナメント競争の研究が、理論的研究に著しく傾斜してきたのが現状であるから、本論文の最大の特質は、このような理論的研究の蓄積された成果を具体的な対象へ適用した点にある。

 従来の研究と比較した本論文の第一の特徴は、経済現象の詳細な吟味に基づいて分析対象を明確化したうえで検討をスタートさせている点である。端的には、(イ)経営者の所得が報酬と賞与に分けられ、後者のみが株主総会によって決定されること、前者が企業の従業員の報酬とほとんど並行しているのに対し、後者が大きく変動していることに注目し、両者を分離して、分析の焦点を後者に合わせた。(ロ)役員賞与の配分が、常務以上の取締役と常勤監査役に限定されていることに注目して、トップ経営者を取締役会メンバー全員ではなく、このより限定されたメンバーとして設定している。このように役員の所得を分解して設定した問題について進められた体系的研究は初めてのものであるが、(イ)(ロ)に注目しない従来の研究が、分析対象である経営陣の設定についても、所得概念の捉え方の面でも、結果として漠然として結論にならざるを得なかったことを示唆する。

 本論文の第二の特徴は、従来、理論的研究に傾斜し、その適用対象として日本企業がとりわけ有効だと示唆されることはあってもその具体性を十分に持たなかったトーナメント競争の理論が、適用可能な具体的形式を与えられ、その有効性が実証的に確かめられた点である。トーナメント競争による内部昇進と経営者インセンティブを内部労働市場におけるインセンティブ・システムとして捉えて、役員報酬(定期給与)と役員賞与の役割を分析し、これが有効に機能していることを実証的に確かめたのである。もちろん、トーナメント競争の理論は日本企業の研究のために開発されたものではないし、著者も、この結果を以て、日本の企業の特徴、さらに特殊な側面を明確にしたと主張するものではない。

 本論文の構成は以下の通りである。

 論文題目:日本企業における労働インセンティブと経営インセンティブ

 第1章 日本企業は準労働者管理型か

 第2章 日本企業における役員賞与と役員報酬

 第3章 内部昇進と経営インセンティブ

 おわりに

 本論文は、実質的には独立して書かれた3つの論文から構成されるが、中心に位置するのは第3章である。第2章は、第3章にいたる道筋を固めるものであり、第1章は、全体の導入部にあたる。利用可能なデータの厳しい制約の下で研究が進められたことを反映して、各章で分析対象とされた産業、用いられたデータともに一貫しているわけではない。このことは本論文の成果を左右するものではないが、得られた結論を一般化する際には留意する必要がある。もちろん、著者はこの点について慎重である。

 経営者間の責任と権限の分配状況を定義し確定するための信頼すべき方法は存在しない。各役員の報酬と賞与が与えられれば、これを責任と権限の分配状況を推測するための参考にできようが、報酬・賞与ともに詳細なデータは利用不能である。著者は、いくつかの理由から、社長がとりわけ大きな責任と権限をもっと判断し、全体の導入部にあたる第1章では、社長の所得に注目する。用いたのは、政経研究所『役員の報酬・賞与・年収』(昭和59、60、61、62年度)の一部上場の製造業企業のデータである(サンプル数104、企業数37、社長数43)。匿名とされた企業名を有価証券報告書等の情報と照らし合わせて整備したデータをプールで用いた。社長の所得は自己資本経常利益率に強く依存することを中心とする第1章の検討結果は、株主の利益が経営者のインセンティブと整合的であることにより織り込まれることを意味するから、日本企業の経営者の行動を、株主をprinc-ipal、経営者をagentとするagency理論を適用して分析することをとりあえず正当化するものである。これと対照する意味で、従業員がprincjpalで経営者がagentだととらえる「準労働者管理型企業」と見ることの適否を、従業員の平均所得に対する社長の所得の依存関係の有無として検討したが、有意な結果は得られなかった。

 第2章では、役員の平均所得と企業業績、企業規模との関連が分析される。サンプル・データは、自動車、鉄鋼、セメント、カメラの4産業のパネル・データである。役員賞与と役員報酬のうち、収益変数により感応的な役員賞与は、1株あたりの年間配当額および内部留保額との間に統計的に有意な関係があるが、とりわけ自動車とカメラの両産業では、配当が5円未満になると役員賞与が全額カットになるという事実が観察される。これまでの研究で指摘された、役員所得が自己資本収益率よりも企業規模により強く依存するという結果は、役員賞与が自己資本収益率に、役員報酬が企業規模にそれぞれ依存することの合成物であったこと、従って、その意義について内部労働市場の観点から再吟味する必要が指摘される。

 第3章では、トーナメント競争の給与体系と役員賞与という2つのインセンティブ装置によって、企業内部の競争システムを捉えた分析が展開される。トーナメントは多段階に分かれ、企業規模が大きくなるにつれてトップの座、すなわち、役員に昇進できる確率は次第に小さくなるから、企業規模と昇進確率の間に負の相関がある。したがって、トップ経営者の所得に対する企業規模の効果は見かけ上のものに過ぎない可能性がある。トーナメントの勝者である経営者に与えられるインセンティブが役員賞与である。こうして、企業規模に依存する役員報酬と、企業業績に依存する役員賞与がともに企業内部の競争システムを支えるインセンティブ・システムの構成要素としての理論的位置づけを与えられる。

 この理論的結論が、東証第1部上場の機械・電気産業の1982年度から1991年度の10年間にわたる690社年のデータを用いてテストされ、有効性が確かめられる。具体的には、次の3点である。(イ)役員給与の男子常用労働者平均給与に対する倍率は男子常用労働者数と役員数の比率を指標として測られたトーナメント競争の激しさに強く依存する。(ロ)企業別男子常用労働者の平均給与は、賃金センサスから得られる男子常用労働者の平均給与の指標に強く依存する。(ハ)役員平均賞与は、all or nothingタイプに近い(1株あたりの配当が5円未満、あるいは1株あたりの純利益が1株あたりの配当額を下回る場合は、賞与はゼロ)が、賞与が支払われるケースに限定すると、説明変数として、収益変数が重要な影響を与え、企業規模は有意ではない。また、男子従業員平均賃金も有意な影響を与えない。

 以上説明したように、本論文は、企業経営者の所得に焦点を合わせた企業内のインセンティブ・システムの実態とその作動メカニズムに関する周到かつ丹念な実証研究であり、これまでの関連分野における研究が理論的研究に著しく傾斜していた状況を、実態とデータの詳細な検討を通じる大胆な仮説の提示を通して突きくずし、新しい研究の段階を開く意義をもつと考えられる。こうした分析が、新たな理論的研究のための刺激となることはもちろんであるが、日本企業にかぎらず、企業をはじめとする経済組織の作動メカニズムの研究に対する広範な研究を大きく刺激するはずである。たとえば、在職中のフリンジ・ベネフィットおよび退任後に予想されるさまざまな報酬まで含めた被説明変数を用いるべきではないか、説明変数としてより長期的な企業収益変数を用いるべきではないか、用いるデータに改善の余地はないかとのコメントが提出されるし、それに沿った研究が開始されるだろう。さらに、第3章の結論が、他の産業でも成り立つか、高度成長期でも成り立つか、日本以外の他の経済でも同様の結論が得られるか、なぜ、5円配当が重要か、なぜ、経営陣が内部で選抜されるのか、しばしば強調されるskill-formationを重視する見方をどのように評価しそれをどのように関連づけるか、さらに、企業のサイズ・組織や企業間関係の決定要因との関連はどのようなものかなどという視点に即座につながることが予想されるのである。しかし、これらの点が、本論文の意義の重要性を示唆するものではあれ、その価値を減ずるものではないことはいうまでもない。

 以上を総合して、本論文が日本の企業行動を基礎づけるインセンティブ・システムに関する研究として高い評価を与え得るものであることは疑いの余地がない。したがって、本論文の著者が経済学の分野で自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献し得る能力をもつと判断することができる。以上の理由により、審査委員会は全員一致で胥鵬氏が博士(経済学)の学位を授与されるにふさわしいとの結論を得た。

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