ヒトを含めた哺乳類の脳機能解明は、現代の生命科学における最重要課題の一つと理解されている。動物の行動の中枢制御機構を探ろうとする神経行動学分野においても、新たな研究手法の進展にはめざましいものがあり、さらには日進月歩で発展する分子生物学的手法の導入によって、様々な動物種における生得的行動や学習行動などのもたらされる至近要因(メカニズム)を神経伝達物質や神経修飾物質の脳内動態の変化として分子レベルで捉えることも可能となってきた。ある行動の発現と特異的に関連しておこる脳内の神経活性物質やその受容体の変化を遺伝子発現レベルで解析したり、ジーンターゲティングにより特定の遺伝子だけを不活化した形質転換マウスでおこる行動変化を調べたり、といった研究はその一例である。 このような神経科学分野におけるin vivoの研究は、遺伝情報を含む生物的特性についての過去の膨大なデータ蓄積と分子生物学的手法の適用のしやすさを反映して、これまで主にマウスやラットなど小型の実験動物を中心に実施され大きな成果を収めてきた。しかし、このようなアプローチによってもたらされた神経科学分野における膨大な知見の集積を整埋統合し、複雑な脳機能をさらに包括的に理解していくためには、個体生物学的な研究の展開が不可欠な時期にいたっている。ヤギやヒツジ、サル、イヌやネコなどの中大型の哺乳類を実験動物として用いる最大のメリットはここにあり、一個体から多元的情報を長期間にわたって記録し、得られた情報の関連性を多面的に解析することができれば、行動を司るシステムの全貌について予測することも不可能ではなくなる。アンチセンスプローブを用いての可逆的な遺伝子機能の制御や、微小透析による神経活性物質の脳内動態の解析、テレメトリーによる自由行動下での視床下部神経活動のモニターなど、多様な神経生理学的研究手法が適用可能となっており、またCTやMRI、PETなどの非侵襲的方法を適用できるのに十分な大きさの脳を持つこともメリットの一つである。これら中大型の実験動物の中で、取り扱いの容易さや安定的供給が保証されている等の利点から、わが国の神経科学分野において最も将来性の期待されている実験動物の一つがシバヤギである。すでにシバヤギ用の脳定位固定装置が開発され、これに脳室造影法を組み合わせた脳定位手術法が実用化されている。しかしヤギやヒツジなど反芻動物の詳細な脳地図はこれまでに出版されておらず、シバヤギを用いて本格的な神経科学的研究を開始するためには、精度の高い脳地図の存在が不可欠であることから、神経解剖学的なアプローチが待たれていた。 そこで本研究では、自律機能の調節や生得的行動の発現に重要な役割を持つ脳領域である視床下部に焦点を当て、この部位を中心に、実用上十分な程度に詳細でかつ再現性の高い定位手術を可能としうるようなシバヤギ用の脳地図を作製することを第一の目標に掲げた。このために、まず簡便でかつ十分な再現性を持つ脳定位法を開発することを目的に、頭蓋骨形態の個体差および間脳視床下部との位置関係についての詳細な検討を行った。その結果、頭蓋骨の3部位(中隔前部腹側部、後頭骨突起部,および外耳孔)から形成される三角形(図1)は形状と大きさのいずれも個体差が小さく、また脳室系および視床下部神経核との位置関係も動物の性や体格の違いに関わらず比較的一定であることが明らかとなった(表1)。あらかじめX線撮影によって求めておいたこの3部位の位置を基準として脳定位装置に頭部を固定する方法を採用することにより、視床下部とその周辺構造に対する脳定位的アプローチの再現性が向上し、例えば前交連および漏斗陥凹の前後方向の座標値と中隔前部腹側部・後頭骨突起部間の距離の間にそれぞれ高い相関(r=0.88、r=0.90)が得られた。以上の結果から、3部位の数値を基に標準脳地図の三次元座標を補正すれば、脳室造影法といった複雑な手技を用いなくとも十分に精度の高い脳定位手術を頭蓋骨の個体差に関わらず実施することが可能となった。 図表図1 シバヤギの頭蓋骨と脳実質(濃い灰色の部分)および脳室系(黒い部分)を示す側面図。脳定位固定装置に頭部を装着する際の基準となる頭蓋骨の目標箇所(a,b,c)とこれにより形成される三角形が示されている。 / 表1 雄および雌シバヤギにおける各頭蓋骨パラメター(図1参照)の個体差 そこで次に、この新たな脳定位固定法を基準としたシバヤギの標準脳地図を作製することにした。ザンボニ溶液で潅流固定した後約2カ月間かけてセロイジン包埋した成熟雄シバヤギの脳から50um厚の前額断連続切片を、上述の脳定位固定法の座標軸方向に従って作製した。神経細胞および神経繊維をルクソールファストブルーを含むあるいは含まないクレシルバイオレット溶液で染色し、視交叉から乳頭体にいたる範囲の視床下部を中心とした視床および扁桃体を含む領域について詳細な観察を行ない、神経核群および神経束を同定した。これをもとに三次元座標を記した脳定位地図を1mm間隔で作製した。脳地図の作製にあたっては、まず切片を写真撮影して拡大しスキャナーで画像データをディジタル化してコンピューターに取り込んだのち画像処理を行って脳地図を描出し、写真と等倍にして並べ比較参照できるようにした(図2)。また画像情報は、必要に応じて容易に三次元構築や追加修正などができるようワークステーションのメモリー上にデータベース化した。なおセロイジン包埋の過程で生ずる脳の収縮率の部位的差異を明らかにするために、X線コンピューター断層撮影装置(CT)および核磁気共鳴画像装置(MRI)を用いて脳内基準部位に対する包埋前後の位置変化を算出し、これをもとに脳定位座標の補正を行った。 図2 シバヤギ脳地図の一例:前額断の脳地図には視床下部および視床に存在する神経核および神経繊維束が示され、それぞれの脳定位固定装置上における空間位置が正確に読みとれるように3次元座標が記されている。視床下部およびその周辺領域を包含するため、このような脳地図を体軸の前後(吻尾)方向に1mm間隔で計35枚にわたって配列した。 次に、上記の脳定位手術法と脳地図を活用した研究の一例として、性腺刺激ホルモン放出ホルモンGnRHの脳内における局在とその雌雄差について検討を行った。GnRHは脳内で合成され視床下部正中隆起部から下垂体門脈血中に放出され、下垂体前葉に作用して性腺刺激ホルモンの合成と分泌を促進するデカペプチドホルモンである。本研究ではGnRHに対するモノクローナル抗体を用いてGnRHニューロンの細胞体および神経繊維を免疫染色し、脳定位地図上にそれらの局在を記入していく方法を用いて、これまでの免疫組織学的研究ではほとんど行われていなかったニューロンの分泌に関する定量的検討を実施した。その結果、GnRHニューロンの細胞体の形態や視床下部およびその周辺領域における分泌様式は雄と雌のシバヤギでほぼ同様であったのに対し、脳地図の三次元座標に基づいて算出したGnRH免疫陽性細胞の総数には明瞭な雌雄差(雄の約4000個に対し雌では約2200個、P<0.01)が認められ、視床下部GnRHニューロンに性的二型の存在する事実が初めて明らかとなった。 以上のように、本研究では反芻類のモデルとして様々な研究分野で利用されているシバヤギの脳定位固定法を新たに開発し、視床下部を中心とする詳細な脳地図を作製した。この方法を用いれば頭蓋骨の個体差や性差を容易に補正して目標とする脳の深部構造の三次元座標を算出することができ、精度の高い脳定位手術を行うことが可能である。本研究で開発した技術は、シバヤギだけでなく、世界各地に分布する同様な小型ヤギにも直ちに適用しうる可能と考えられ、このような実験動物を用いた神経科学の発展に寄与することが期待される。 |