イノシトールリン脂質代謝は、細胞増殖因子等の外来刺激に応答して起こる細胞内情報伝達機構の一つとして知られている。Phosphatidylinositol-3kinase(PI3K)はイノシトールリン脂質代謝に係わる酵素であり、従来知られていたPhosphatidylinositol kinaseとは異なり、フォスファチジルイノシトールのイノシトール環のD3位をリン酸化する。このPI3Kの反応産物であるPI-3,4bisphosphate(PIP2),PI-3,4,5trisphoshate(PIP3)は細胞増殖因子や神経成長因子などの刺激に応じてその細胞内含量が一過的に上昇することが示されており、二次メッセンジャーとして細胞の増殖あるいは分化に深く関与すると考えられている。しかし、これらリン脂質の生理的機能、代謝に関してはその詳細は不明である。PIP2,PIP3の代謝経路を解明することにより、これらリン脂質の生理的機能、PI3Kの関与する細胞内情報伝達経路の生理的意義について新たな知見が得られると考えられる。本研究はこのような背景を基に、PIP3を代謝する酵素活性を検出する事、更にその酵素を単離精製する事を目的とした。論文は2章よりなる。 第1章ではPIP3を代謝する酵素活性の検出について述べた。In vitroでPIP3を代謝する酵素活性を検出するため、まずPIP3の調製を行った。牛脳より有機溶媒抽出、続いてカラムクロマトグラフィー行い、PIP3の前駆体であるPI-4,5bisphosphate(PI-4,5-P2)を精製した。次に牛胸腺よりアフィニティークロマトグラフィーによってPI3Kを精製した。調整したPI-4,5-P2を基質として、[-32P]ATP存在下に精製PI3Kと反応し、酵素反応的に32PラベルされたPIP3を合成した。次にPIP3代謝活性の検出を試みた。調整したPIP3を培養細胞抽出液と混合し、反応させた。反応停止後、リン脂質を薄層クロマトグラフィーにより解析したところ、時間経過と共にPIP3の減少、PI-3,4-P2の生成が認められた。これにより、細胞抽出液中には、PIP3のイノシトール環のD5位のリン酸基をはずす、脱リン酸化酵素活性(PIP3-phosphatase活性)が存在する事が明らかとなった。また反応前後で総放射活性は保存されており、さらにホスホリパーゼ活性などの他の代謝活性は検出されなかった。以上より、PIP3の代謝は主としてPIP3-phosphataseによって行なわれることが明らかとなった。 第2章ではPIP3-phosphataseの精製、その生化学的性質の検討について述べた。牛胸腺細胞質画分を出発材料とし、5ステップのカラムクロマトグラフィーにより、本酵素を760倍にまで精製した。収率は8.6%であった。最終ステップであるBlue sepharoseの各画分をSDS-PAGEで解析し、PIP3-phosphatase活性と挙動を共にする分子量120kDaの蛋白質(p120)を検出した。精製画分を未変性ゲル電気詠動後、ゲルを断片化し活性を測定し、分子量約120kDaの位置をピークとして酵素活性が検出されること、活性ピークを示すゲル断片中にp120が含まれることを見いだした。ゲルろ過クロマトグラフィーにおいて酵素活性は分子量約120kDaの位置をピークとして検出され、以上よりp120がPIP3-phosphataseであると結論した。次に、本酵素の生化学的性質を調べた。本酵素の至適pHは8であり、弱アルカリ性において強い活性を示した。また、本酵素は2価陽イオンを要求し、Mg2+を加えた場合本酵素は強く活性化された。Ca2+は本酵素を活性化しなかった。Phosphatidylcholineなどの主要リン脂質は本酵素活性に顕著な影響は与えなかった。本酵素はPI-4,5-P2(イノシトール環のD5位にリン酸基を持つ)を全く脱リン酸化しなかった。従って本酵素はPIP3に特異的であると結論した。 以上要するに本論文は、細胞内二次メッセンジャーと考えられるPIP3の代謝様式を解明し、さらにその反応を触媒する酵素を精製・同定することで、遺伝子のクローニングを初めとした様々な解析の可能性を開くとともに、イノシトールリン脂質代謝経路に新たな知見を加えたものであり、学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として、価値あるものと認めた。 |