学位論文要旨



No 111246
著者(漢字) 蕪山,由己人
著者(英字)
著者(カナ) カブヤマ,ユキヒト
標題(和) 細胞の増殖、分化に係わる化合物Phoshatidylinositol-3、4、5trisphoshateの代謝に関する研究
標題(洋) Studies on the metabolism of Phosphatidylinositol-3,4,5 trisphosphate
報告番号 111246
報告番号 甲11246
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1537号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 福井,泰久
 東京大学 教授 鈴木,紘一
 東京大学 教授 松澤,洋
 東京大学 教授 小野寺,一清
 東京大学 助教授 徳田,元
内容要旨

 イノシトールリン脂質代謝は、細胞増植因子等の外来刺激に応答して起こる細胞内情報伝達機構の一つとして知られている。Phosphatidylinositol-3kinase(PI3K)はイノシトールリン脂質代謝に係わる酵素であり、従来知られていたPhosphatidylinositol kinaseとは異なり、フォスファチジルイノシトールのイノシトール環のD3位をリン酸化する。このPI3Kはv-srcなどの癌遺伝子の産物や増殖因子受容体に結合、又はリン酸化されることによって活性化することが知られている。このPI3Kの反応産物であるPI-3,4bisphosphate(PIP2),PI-3,4,5trisphoshate(PIP3)は細胞増殖因子や神経成長因子などの刺激に応じてその細胞内含量が一過的に上昇すること、癌化した細胞においてその細胞内含量が増加していることなどが示されており、二次メッセンジャーとして細胞の増殖あるいは分化に深く関与すると考えられている。しかし、これらリン脂質の生理的機能、代謝に関してはその詳細は未だ不明である。PIP2,PIP3の代謝に関しては、細胞内において合成された後極めて迅速な分解を受けるため、強力な代謝経路の存在が示唆されていた。しかし、これらリン脂質は既知のホスホリパーゼによっては加水分解されないことが示され、未知のホスホリパーゼ、あるいは全く未知の代謝経路によって代謝されると考えられていた。PIP2,PIP3の代謝経路を解明することにより、これらリン脂質の生理的機能、PI3Kの関与する細胞内情報伝達経路の生理的意義について新たな知見が得られると考えられる。本研究はこのような背景を基に、PIP3を代謝する酵素活性を検出する事、更にその酵素を単離精製する事を目的とした。

1PIP3を代謝する酵素活性の検出

 PIP3を代謝する酵素活性を検出するため、PIP3の調製を試みた。PIP3はその細胞内含量が極めて少ないリン脂質であるため、臓器から有機溶媒抽出法などにより簡便に調製することは困難と考えられた。そこでPIP3の調製は以下の方法により行なった。牛脳より有機溶媒抽出(Folch法)、続いてカラムクロマトグラフィー(Showdex NH-10column)を行なうことにより、PIP3の前駆体であるPI-4,5bisphosphate(PI-4,5-P2)を精製した。次に牛胸腺よりアフィニティークロマトグラフィーによってPI3Kを精製した。調整したPI-4,5-P2を基質として、32P-ATP存在下に精製PI3Kと反応し、酵素反応的に32PラベルされたPIP3を合成した。合成産物を薄層クロマトグラフィーで分離し、PIP3が主要産物であることを確認した。

 次にPIP3代謝活性の検出を試みた。調整したPIP3をSR3Y1細胞(癌遺伝子v-srcにより癌化したラット繊維芽細胞)抽出液と混合し、25℃にて保温した。反応溶液にクロロホルム/メタノール溶液を加え反応を停止した。これに1N塩酸を加え二層分配した。有機溶媒層を薄層クロマトグラフィーにより解析したところ、時間経過と共にPIP3のスポットの上方に新たなスポットの生成が認められた。反応前後で総放射活性は保存されていた。この分子を脱アシル化し、高速液体クロマトグラフィー(PartiSphere SAX column)により解析したところ、PI-3,4-P2であることが明らかになった。これにより、細胞抽出液中には、PIP3のイノシトール環のD5位のリン酸基をはずす、脱リン酸化酵素活性(PIP3-phosphatase活性)が存在する事が明らかとなった。また二層分配した水溶液層には有為な放射活性は検出されず、ホスホリパーゼ活性などの他の代謝活性は存在しないと考えられた。以上のことより、PIP3の代謝は主としてPIP3-phosphataseによって行なわれることが明らかとなった。

2PIP3-phosphataseの精製、生化学的性質

 PIP3-phosphataseの生理的意義を明らかにし、PIP3代謝経路の詳細な解析を行うために本酵素の精製を試みた。牛胸腺細胞質画分を出発材料とし、S-sepharose fast flow,Heparin sepharose,Blue sepharose,Toyopearl HW55などを順次用いることで本酵素を760倍にまで精製した。収率は8.6%であった。本酵素の安定化のため、また各精製ステップにおける回収率を上げるため、精製の際に0.3%オクチルグルコシドを添加した。最終ステップであるBlue sepharoseの各画分をSDS-PAGEで解析したところ、PIP3-phosphatase活性と挙動を共にする分子量120kDaの蛋白質(p120)を検出した。この蛋白質のアミノ酸配列を決定をした。p120のN-末端は修飾されており、N-末端の配列は決定できなかった。p120をリジルエンドペプチダーゼで消化し、p120断片のアミノ酸配列を調べたところ、LRAAERFAK,FVDGEWYRARVEKなる配列が得られた。この配列と相同性を示す蛋白質は報告されておらず新規蛋白質であることが明らかとなった。PIP3-phosphatase精製画分を用い未変性ゲル電気詠動を行った。この後ゲルを断片化しPIP3-phosphatase活性を測定したところ、分子量約120kDaの位置をピークとして本酵素活性が検出された。この活性ピークをSDS-PAGEにより分析したところp120が検出された。また、Toyopearl HW55ゲルろ過クロマトグラフィーにおいて本酵素活性は分子量約120kDaの位置をピークとして検出された。以上の結果はp120がPIP3-phosphataseであることを示している。

 次に、PIP3-phosphatase精製標品を用い、本酵素の生化学的性質を調べた。本酵素の至適pHは8であり、弱アルカリ性において強い活性を示した。また、本酵素は2価陽イオンを要求し、2価陽イオンを加えない場合酵素活性は検出されなかった。1mMのMg2+を加えた場合本酵素は強く活性化された。1mMを越える濃度のMg2+は活性に阻害的であった。Ca2+は本酵素を活性化しなかった。本酵素の活性にはMg2+が必要と考えられるため、Mg2+存在下にCa2+の影響を調べたところ、0.1mM以上のCa2+は本酵素活性を著しく阻害した。リン脂質の本酵素活性に及ぼす影響も調べた。検討したリン脂質(Phosphatidylcholine,Phosphatidylethanolamineなど)は本酵素活性に顕著な影響は与えなかった。本酵素の基質特異性を調べた。本酵素はPI-4,5-P2(イノシトール環のD5位にリン酸基を持つ)を全く脱リン酸化しなかった。従って本酵素はPIP3に特異的であると考えられる。

 以上本研究により、PIP3を代謝する酵素活性が同定され、遺伝子のクローニングによる解析の可能性が開かれた。PIP3は増殖因子などの刺激により急速に増加し、また急速に減少する。増加する面に関しては多くの研究があるが、それと同様に重要であると思われる減少のメカニズムについての研究は少ない。本研究を契機に、更に研究が発展することを期待する。

イノシトールリン脂質代謝経路PI-3キナーゼ、ホスホリバーゼC、及び今回同定したPIP3-phosphataseの触媒する反応を示した。
審査要旨

 イノシトールリン脂質代謝は、細胞増殖因子等の外来刺激に応答して起こる細胞内情報伝達機構の一つとして知られている。Phosphatidylinositol-3kinase(PI3K)はイノシトールリン脂質代謝に係わる酵素であり、従来知られていたPhosphatidylinositol kinaseとは異なり、フォスファチジルイノシトールのイノシトール環のD3位をリン酸化する。このPI3Kの反応産物であるPI-3,4bisphosphate(PIP2),PI-3,4,5trisphoshate(PIP3)は細胞増殖因子や神経成長因子などの刺激に応じてその細胞内含量が一過的に上昇することが示されており、二次メッセンジャーとして細胞の増殖あるいは分化に深く関与すると考えられている。しかし、これらリン脂質の生理的機能、代謝に関してはその詳細は不明である。PIP2,PIP3の代謝経路を解明することにより、これらリン脂質の生理的機能、PI3Kの関与する細胞内情報伝達経路の生理的意義について新たな知見が得られると考えられる。本研究はこのような背景を基に、PIP3を代謝する酵素活性を検出する事、更にその酵素を単離精製する事を目的とした。論文は2章よりなる。

 第1章ではPIP3を代謝する酵素活性の検出について述べた。In vitroでPIP3を代謝する酵素活性を検出するため、まずPIP3の調製を行った。牛脳より有機溶媒抽出、続いてカラムクロマトグラフィー行い、PIP3の前駆体であるPI-4,5bisphosphate(PI-4,5-P2)を精製した。次に牛胸腺よりアフィニティークロマトグラフィーによってPI3Kを精製した。調整したPI-4,5-P2を基質として、[-32P]ATP存在下に精製PI3Kと反応し、酵素反応的に32PラベルされたPIP3を合成した。次にPIP3代謝活性の検出を試みた。調整したPIP3を培養細胞抽出液と混合し、反応させた。反応停止後、リン脂質を薄層クロマトグラフィーにより解析したところ、時間経過と共にPIP3の減少、PI-3,4-P2の生成が認められた。これにより、細胞抽出液中には、PIP3のイノシトール環のD5位のリン酸基をはずす、脱リン酸化酵素活性(PIP3-phosphatase活性)が存在する事が明らかとなった。また反応前後で総放射活性は保存されており、さらにホスホリパーゼ活性などの他の代謝活性は検出されなかった。以上より、PIP3の代謝は主としてPIP3-phosphataseによって行なわれることが明らかとなった。

 第2章ではPIP3-phosphataseの精製、その生化学的性質の検討について述べた。牛胸腺細胞質画分を出発材料とし、5ステップのカラムクロマトグラフィーにより、本酵素を760倍にまで精製した。収率は8.6%であった。最終ステップであるBlue sepharoseの各画分をSDS-PAGEで解析し、PIP3-phosphatase活性と挙動を共にする分子量120kDaの蛋白質(p120)を検出した。精製画分を未変性ゲル電気詠動後、ゲルを断片化し活性を測定し、分子量約120kDaの位置をピークとして酵素活性が検出されること、活性ピークを示すゲル断片中にp120が含まれることを見いだした。ゲルろ過クロマトグラフィーにおいて酵素活性は分子量約120kDaの位置をピークとして検出され、以上よりp120がPIP3-phosphataseであると結論した。次に、本酵素の生化学的性質を調べた。本酵素の至適pHは8であり、弱アルカリ性において強い活性を示した。また、本酵素は2価陽イオンを要求し、Mg2+を加えた場合本酵素は強く活性化された。Ca2+は本酵素を活性化しなかった。Phosphatidylcholineなどの主要リン脂質は本酵素活性に顕著な影響は与えなかった。本酵素はPI-4,5-P2(イノシトール環のD5位にリン酸基を持つ)を全く脱リン酸化しなかった。従って本酵素はPIP3に特異的であると結論した。

 以上要するに本論文は、細胞内二次メッセンジャーと考えられるPIP3の代謝様式を解明し、さらにその反応を触媒する酵素を精製・同定することで、遺伝子のクローニングを初めとした様々な解析の可能性を開くとともに、イノシトールリン脂質代謝経路に新たな知見を加えたものであり、学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として、価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク