1.フランス革命の再検討とも絡んで、近年、アンシャン・レジームと革命後の社会の関連、革命後の社会の性格、近代社会の確立の画期とそのメルクマール等についてさまざまな見解が対立している。本論文は、このような研究史の現状を踏まえて、王制復古(1814年)から第二帝制成立(1852年)にいたる期間を主な対象として、19世紀全体を見通しながらフランス「近代社会」がいつ、どのような過程をたどって確立したかについて検討することを意図したものである。 論文の主要な構成は以下の通りである。 第1章 王制復古の歴史的位置 第2章 復古王制期の秩序原理 第3章 復古王制期の社会経済政策 第4章 七月革命と社会構造の転換 第5章 七月王制期の秩序原理 第6章 七月王制期の社会経済政策 第7章 二月革命の衝撃と統治政策の再編 第8章 おわりに 2.まず第1章第1節では課題と方法が述べられる。著者は、社会構造を「秩序原理」(「支配的契機を含み、政治的次元において正当化された、社会の階層秩序の基準となる原理」)と「統治政策」(「秩序原理に基づいて形成された階層秩序、すなわち各社会層間の関係に対する被支配層からの支持を調達すべく支配階層によって展開される政策」)という二側面で捉え、「近代社会」を「財産所有・業績など後天的に獲得しうる資質」(「後天性原理」)を秩序原理として選択した社会と定義することから出発する。そのうえで、「後天性原理」を「秩序原理」とする社会がいつ確立したかを問うことが第一の課題とされ、さらに「統治政策」の対象として「社会経済政策」(「特定の社会構造を志向する経済領域の政策」)を取り上げ、穀物流通政策、共同地処分政策、救貧政策、教育政策の事例に即して、「全国的支配層、地域支配層、被支配層=民衆」三者のアクター相互の絡み合いのなかで、それぞれの時代にいかなる「統治政策」がいかなる「秩序原理」に基づいて選択され展開されたかを跡付けることが第二の課題とされる。続いて第2節以下では、フランス革命が身分特権の廃止によって「生まれ」を「秩序原埋」とする「先天性原理」を否定したにもかかわらず、その後、バーク、ボナルド、メストルらの「先天性原理」復活論を継承した「極端王党派」が1820年代を通じて政権を担当したこと、また「帝制貴族」の性格に関連して1814年の王制復古憲章が二つの原理の妥協・並存を示していたことなどが指摘され、復古王制期には「近代社会」は未確立であったと結論される。 第2章は、まず1826年の「相続および補充指定に関する法案」をめぐる論議の検討によって、復古王制期の支配層がいかなる「秩序原理」を志向し、また民衆がそれにどのように対応したかを論じる。その結果、全国的支配層の多数派が「先天性原理」の復活を意図していたこと、他方、民衆の側はこの原理を「封建的諸権利、十分の一税、社会的上昇の否定」として把握しその復活の意図に反対したこと、また西部のイル=エ=ヴィレヌ県の事例から、全国的支配層と民衆の狭間に立つ地域支配層が先天性原理を支持しながらも、民衆の支持をうるために「民衆への配慮」から「パトロナージュ」と「ローカリズム」を展開しようとしたことが指摘される。 第3章は、王制復古期の穀物流通政策と共同地処分問題に現れた「統治政策」とそれをささえる「秩序原理」、「統治政策」に対する民衆の行動とそれを支える秩序観をイル=エ=ウィレヌ県の事例に即して克明に検討し、以下の諸点を指摘している。すなわち民衆は穀物流通について、食糧危機の時に「所有権に対する生存権の優越」と地域内における食糧確保の立場から地域外への穀物移出に反対し、また共同地処分についても、「生存権」の立場から現状維持ないし住民間の均等分割を要求し、入札による売却・処分に反対した。これに対して、全国的支配層は「生存権に対する所有権の優位」と穀物全国市場の形成をめざす立場から、穀物流通の自由を採用して民衆と対立したが、同時に「民衆への配慮」からこの自由主義は「独占」を禁止する]独占禁止型自由主義」の形をとった。また彼らは農業生産の発展をめざす立場から共同地の現状維持に反対したが、その具体的な処分形態どしては「民衆への配慮」から分割を選好した。一方、地域支配層は民衆と「ローカリズム」を共有し、穀物移出禁止・地域住民の優先的購入を主張し、共同地処分については、「民衆への配慮」からさまざまな形態の間で動揺したあげく、1820年代後半から分割=小生産に対する否定的評価を表明し始めた。したがって総体としては、この時期の統治政策は「民衆への配慮」の存在によって特徴づけられる。 第4章は、七月革命がいかなる背景のもとで発生したか、またこの革命が「社会構造」の転換過程にいおいていかなる意義をもったかを検討する。著者によれば、七月革命は復古王制期を特徴づけた「民衆への配慮」と「パトロナージュ」が、1820年代末に民衆の意識において後景に退き、民衆にとって「先天性原理」が十分の一税・封建的諸権利と同-視される時必然となった。一方、イル=エ=ヴィレヌ県では復古王制を支持する貴族層による反革命反乱(「西部の反乱」)が勃発し、民衆は「パトロナージュ」と「ローカリズム」に基づいてそれに参加した。これに対して、革命支持勢力の立場は、貴族の支配と「先天性原理」に反対するものであり、七月革命は、「反先天性原埋」を特徴とする社会構造変革の画期となった。 第5章は、七月革命後の新しい支配層がいかなる「秩序原理」を採用したかについて検討する。すなわち、革命後、地域支配層も含めて新しい支配層は「先天性原理」を否定し、「財産所有」に基づく社会を構想したこと、また民衆の支持を獲得するための「統治政策」の中心が「パトロナージュ」から「社会的上昇の可能性」=「財産所有者化」の訴えに移行したことを明らかにし、これらの事実のなかに「後天性原理の勝利」を具現する「統治政策」の転換を見て取り、これをもって「フランス近代社会の確立」を確認する。 第6章は、七月王制期の「社会経済政策」を復古王制期のそれと比較し、「秩序原理」の転換が政策レベルにどのように反映されていったかを検討し、次の諸点を強調する。すなわち穀物流通に関して、全国的支配層は王制復古期に示した「独占」批判を放棄して市場外取引を容認し、いかなる国家介入にも反対するにいたった。地域支配層は市場外取引を禁止したが、全国的支配層と全国市場観を共有し、「ローカリズム」を放棄して穀物移出を容認する態度に転換した。共同地処分については、両支配層とも富裕層に有利な売却・賃貸と大規模経営支持の方向へと転換していった。かくて復古王制期に「民衆への配慮」を示した二つの政策領域において「民衆への配慮」が消滅し、これに対応して、7月王制期には、まず「救貧政策」が「民衆への配慮」を担う新しい政策領域として登場した。しかし「自助による貧困からの脱出」という新しい貧困観が次第に支配的となってゆくなかで、復古王制期に居住地において被救恤者としての存在を認められていた民衆(健常貧困層)は、「労働意欲を欠く者」として処罰の対象となり、結局、救貧政策は穀物流通政策・共同地処分政策に替って「民衆への配慮」を十分に引き取ることはできなかった。この結果、教育政策が新たに統治政策の中核に位置することになり、支配階層は彼らの「秩序原理(後天性原埋)」と調和的な「教育による社会的上昇」のテーゼを説いて、復古王制期の反啓蒙主義から転換し、1833年のギゾー法とともに初等教育の普及に乗り出した。 第7章は、次のように、ギゾー法制定以後の教育政策の展開に対する民衆の対応を通じて、二月革命にいたる背景を明らかにし、さらに革命後の統治政策の再編を論じている。すなわち民衆が近代社会の「秩序原理」を受け入れ彼らの就学率を高め、社会的上昇を実現するにつれ、支配層は次第に恐怖を感じ始めていたが、左翼「レフォルム派」の農村への浸透が示したように、革命後の民衆が「公的介入による無知からの解放と万人の所有者化と独立」を唱えて既存の支配=従属関係を批判するに及んで、支配層の恐怖感は高まり、統治政策の再編が追求されるにいたった。1850年のファルー法による公教育組織化は、二月革命に示された社会秩序の危機に対応した統治政策再編の象徴であった。教育が「社会的上昇」によって既存の社会秩序を脅かすことに対する危惧から、ファルー法以後の教育政策は、再び反啓蒙主義に回帰し、服従・諦念を強調することによって民衆の「社会的上昇」を抑制するにいたった。しかし固定的な階層秩序の再建をめざしたこの反啓蒙主義と「パトロナージュ」への回帰は、階層秩序の法的規定を意図するものではなく、したがって「後天性原理」そのものを放棄せず、「後天性原埋に基づく固定的階層秩序」を志向したものと評価できる。 第8章は、第三共和制の確立(1880年代)以後に関して、フェリーの改革による啓蒙主義と「社会的上昇」への再回帰、個人的な「社会的上昇」の時代の終焉と「団体主義時代」の幕開け、この変化に対応した急進主義の変質を展望している。 3.以上が400字原稿用紙にして約1000枚に及ぶ本論文の要旨であるが、その特徴と意義は次の通りである。 第一に、本論文は近代社会の確立にいたる過程とそれに伴うさまざまな統治政策の変遷を具体的かつ詳細に跡付け、独自の「社会構造」分析の観点から、大革命後ほぼ一世紀に及ぶフランス社会の展開・変容を一貫した視点から体系的に把握しようとした意欲的試みである。それはこれまでの19世紀フランス史研究がおもにフランス革命、二月革命、パリ・コミューン、産業革命など短期ないし特定の限定されたテーマを対象としてきたのに対して、19世紀全体を見通したフランス社会の体系的な把握を意図したものと評価できる。またこのような課題に対処するために、社会史、民衆史、心性史などの新しい研究成果を数多く吸収し、経済史と社会史の接合を意図しているところに特徴が見られる。 第二に、このような長期的展望の枠内において、とくにこれまで研究が手薄であった復古王制期と七月王制期の社会経済政策を本格的に分析したことは、わが国の19世紀フランス社会経済史研究が産業革命研究の一環として、繊維、製鉄、鉄道、農業、銀行制度の研究に偏していただけに、新たな政策領域に目を向けたものと評価できる。また社会経済政策の一環として教育政策を本格的に研究したことは、著しく研究が乏しい救貧政策を視野に入れたこととともに、貴重な開拓者的業績として評価できよう。 第三に、著者の問題設定と立論は研究史の整理と内外の重要な文献の渉猟に依拠しているだけでなく、県文書館と国立文書館などの豊富な一次史料を活用したイル=エ=ヴィレヌ県の事例の実証的分析を随所に配置することによって、いわばマクロ的な分析とミクロ的な分析を相互補完的に組合わせ、分析に広がりと奥行が与えられている点も高く評価されよう。とくに著者が取り上げているイル=エ=ヴィレヌ県の研究は、フランスでも比較的研究が少なく、研究史の空白を埋める貴重な研究と評価できる。 4.しかし以上のような意義をもつ反面で、本論文はいくつかの問題点をもっている。 第一に、著者の分析の枠組みについて言えば、「先天性原理と後天性原理」、「生存権と所有権」、「生産者と消費者」、「独占禁止型自由主義と独占容認型自由主義」などの対立する概念を用いていることを特徴としている。この方法は長期的展望のなかで論点を手際よく整理するうえで有効であることは認められるものの、その反面で、それらの関係があまりにも機械的に二分法的に把握され、分析を図式的にしたという問題点を指摘しなければならない。またこの点に関連して、これらの諸概念に曖昧さが残っており、より厳密な規定が必要であることも指摘しておかなければならない。豊富な一次史料を利用しながら、それが十分活かされていない箇所が見られるのも、この問題点の現れであろう。 第二に、著者の分析枠組みにおいて重要な位置を占める「民衆」についても、問題点が指摘されよう。たとえば「民衆」は穀物流通、共同地処分、救貧政策、教育政策など対象となる政策領域によって、また時代と地域によってその具体的な存在形態は多様であり、この多様性に配慮した検討がなされるべきであるが、著者の「民衆」概念はこの点で抽象的で具体性に乏しく、個々の事例から描きだされている民衆の実像との乖離がみられると言わなければならない。キーワードである民衆の要求や支配層の「民衆への配慮」が、ときに説得力に欠けるのもこのことと無開係ではあるまい。 第三に、著者の言う「社会構造」とはミアクターとして措定された全国的支配層、地域支配層、「民衆」三者の間の「秩序原理」と「統治政策」をめぐる対立を通して現れる「社会構造観」を意味し、客親的構造を意味するものではない。だとすればここで扱われている「社会経済政策」が、たとえば社会の階級構成、財産所有分布、農業構造などにいかなる影響を与えたか等、総じて著者の言う「社会構造」と客観的な「社会構造」がいかなる関連に立つか問題とされるべきであろう。 第四に、構成についても問題が指摘されよう。著者は第8章(おわりに)において、19世紀末から1930年代にいたる急進主義の変容をもって論文を終えているが、これはいささか先を急ぎすぎた構成の感を拭えない。むしろ第7章までの実証分析をうけて、近代や近代社会についての著者なりの積極的な議論を含めた総括をもって終わることが望ましかったように思われる。 5.このような問題点があるとはいえ、本論文がフランス近代社会経済史の研究として高い評価を受けるものであることは疑問の余地がない。したがって本論文の著者が社会経済史の研究分野で自立した研究者して研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献しうる能力をもっていると判定することができる。 以上の理由から、審査委員会は全員一致で本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに値するものとの結論を得た。 |