一八七七(明治十)年に、清国が初めての駐日公使団を日本に派遣した。本論文は公使団の主要メンバーである公使何如璋、書記官黄遵憲を中心に、彼らの日本での異文化体験の実体及び意義を探ってみた。本論文は四部十五章から構成されている。 第一部、「異文化との遭遇」、この部において、駐日公使団の出発を描いた。これによって、公使団員の近代的な外交関係に対する認識や、異文化との遭遇時に現われた困惑や好奇の諸形態を導き出し、初代駐日公使団の団員たちにとっての、異文化理解という課題の時代的重みの究明をはかった。 第二部、「公使団員の文人気質」、この部では、公使団員の文人気質に焦点を当て、花見に触発された日本文化論や、女色談議から現れた修身観など興味深い事例に即して、この時代の中国の文人外交官の特性を照明する。この部において、第一部に現れた公使団員の表面的な異文化論が深化されたことが検討される。 第三部、「外交活動の展開」、以上の部で「文人外交官」の特性を究明した上で、彼らの外交活動を探ってみるものである。しかし、本論文は外交史の研究を目指しているものではないので、焦点はあくまでも外交活動を通して現れた公使団員の異文化理解の様式に当てることにしている。これによって、明治十年代初期の日中外交のある側面を照明したのである。 第四部、「『日本国志』の世界」、公使団の日本研究の代表的な作品『日本国志』の世界の解明をはかる。『日本国志』は、公使団の中心的な存在である黄遵憲の日本研究の成果であり、彼の異文化理解の帰着点を表わしている。この解明によって、公使団員の異文化理解の実態を究明すると同時に、その日本滞在の意義を改めて確認することになる。 本論文の主要人物の一人は公使の何如璋であるが、何如璋にとって、異文化と遭遇した時、まず解決しなければならない問題は利義観の問題であった。利義観の面で、彼の基本的な価値判断は、孔子の日く「君子喩於義、小人喩於利(君子は義に喩り、小人は利に喩る)」 (『論語』「里仁」)というような儒教的な教えによるものであった。四書五経を熟読している何如璋らにとって、儒教の教えはそのまま自分の価値判断の基準でもあった。したがって、利益は追求すべきではなく、互に利益を追求するようになると、必ず世の中を混乱させてしまうと、何如璋は考えていた。しかし、このような考えは、価値観の異なる異文化との接触によって、修正が強いられた。その背景には、西洋の利益追求の価値観は強大な競争力を形成させ、現実的には中国の存亡を脅かすに至っているというものがあった。何如璋は強大な国力を背景とする西洋の外交に対応するためには、国益中心の外交活動を遂行していかなければならず、そのためには「利」を求めていくことが極めて重要なことだと感じた。彼は利を求めることを「自強」の手段として考えたが、もちろん、これは全面的に西洋的な価値観を承認したものではなく、何如璋の考えでは西洋の東洋への参入によって、中国の固有の秩序が破壊され、弱体化している状態において、競争を刺激し、自強に繋がる可能性のある西洋的な価値観の功利性を利用し、競争に堪える力をつけたい、という所にとどまっていた。これはアヘン戦争以後の魏源の「夷を以て夷を制す」、及び同治年間以来の洋務派の「中体西用」のような考え方に通じるものであり、あくまでも中国の伝統的な倫理思想、政治制度を本体として維持し、西洋の近代科学技術を作用として、その外側に受けいれようとするものであった。 「利」というものについては個人の利と、集団の利とに二分することができるが、儒教の利義観で特に戒めるべきものとされたのは、個人の利益追求である。個人の私利を抑圧し、義の重視を強調することは、集団の公利を維持するためのものである。来日当初、何如璋はこの私利と公利とを区別せずに一概に否定していたが、後に彼はこの二つの利を分けて考え、公利というものを追求するようになった。何如璋の琉球問題における「強硬策」の提示、及び朝鮮問題における清国主導の開国策の主張などは、みなこの公利である国益のためのものであり、これは属国(朝貢国)を守るという大義名分のもとで、自国の利益を確保するという考えである。したがって、琉球問題や、朝鮮問題を論じる時、何如璋の最大の関心は、これらの地域の清国にとっての防衛上の重要性にあったのである。したがって、何如璋の外交論では、必然的に琉球や朝鮮の国益を二の次に置くこととなった。このような思想背景のもとで、何如璋は琉球問題を論じた時に、琉球王国の現状よりも、清国のことを中心に、彼の強硬策を提示したのである。また、朝鮮問題を論じた時に、何如璋は朝鮮がかつて経験していたアメリカや日本の武力侵攻を無視して、自国の利益を第一に考え、ぱっぱら日本側の見解に基づいて、「結日本」、「聯米国」のような策略を考案し、何の顧慮もなく朝鮮側に示したのである。ここには何如璋利義観の本質を見ることができる。彼の大義名分のための外交論の中には、実は自国の公利である国益のためという本質的なものが隠れている。何如璋を論じる時、この利義観に現われた彼の歴史的限界を見逃してはならない。在来のいくつかの何如璋研究では、何如璋を清国の軟弱外交の対立面として扱い、彼の外交面での強硬論を評価する傾向が強かった。しかし、何如璋の強硬論の実行可能性や強硬論を出した思想的な背景から考えれば、このような評価は必ずしも当を得ているとは思えない。本論文では、このような観点から何如璋の利義観と彼の外交論とを結びつけて分析、評価した。 公使館の中でもう一人重要な存在は書記官の黄遵憲である。本論文では、主に次のような方面から黄遵憲を把握した。 黄遵憲にとって、正確な日本理解がなければ、日本を自国改革の手本にすることが不可能である。したがって、黄遵憲の日本理解はどのように達成されたのか、その理解の内実は如何なるものだったのか、検討すべきである。 黄遵憲の日本に対する認識には、不理解から、理解へと深化していく過程があった。来日当初、黄遵憲は日本文化がただ中華文化の末流だという認識を持っていたが、日本に滞在する日が長くなるにつれて、日本の伝統文化の美を発見することができた。彼は、日本人の自然を愛する心、清潔を好む習慣を身近に感じ取ることができた。彼はこれを安定した社会、穏和な民心と関連して考えた。黄遵憲はこのような日本の社会、民風を理想的な桃源郷と見なしていた。この点において、黄遵憲はたえず自国での経験と比較しながら、彼の日本理解を確立したのである。絶えず動乱にさらされている母国では、民心も乱れていて、中国文人のたえず求めつつある理想中にある桃源郷は程遠い存在となっている。日本での桃源郷発見は、大いに詩人黄遵憲の心を慰めた。彼は一連の日本讃美の詩文を書き残し、自国民に彼の日本文化発見を示した。 黄遵憲の日常生活には伝統文化が深く浸透している。この様相を分析することによって、黄遵憲が異文化と接触する時に、伝統文化と異文化との関係を如何に位置付けをするのか、ある種の行動様式を把握することができるので、これを究明する必要がある。 清末の文人である黄遵憲にとって、深く儒教思想の教養を持っているがゆえに、自分の行動をすべてこの儒教の教えに根拠を置いて、合理化しようとした。書記官黄遵憲は女色をめぐって、「好色で善く情が用いられるものは、推して孝子と為るべく、忠臣と為るべし」と述べているが、これは『論語』「学而」の「賢賢好色」に対する彼の解釈によっている。このように好色というものを、「孝」「忠」といった儒教の基本的な理念と結びつけて解釈するところに、中国文人の、常に自分の行動を伝統文化の枠組の中に当て填めようとする傾向が見られる。 黄遵憲の改革思想を、彼の持つ文化素養、位置する時代背景と結びつけて考えなければならない。これを考える時、彼の言論を断片的に借用するのではなく、彼の作品の全体像を視野に入れ、客観的に分析すべきである。 黄遵憲は自分の持つ伝統文化による価値判断、及び文化の多様性を擁した日本での体験から、伝統文化の基盤に立って、西洋の近代文明を取り入れるべきだという考えをまとめた。黄遵憲にとって、伝統文化に対する解釈も多様性のあるものである。好色精神が、儒教の修身論と矛盾しないように解釈する姿勢に見られるように、黄遵憲は、自国の伝統文化と西洋の近代文明との相違点を指摘するだけでなく、必要に応じて多くの共通点をも見出して、異文化導入の合理性を主張した。異文化と接触する時、中国文人特有の利義観、倫理観は常に大いに作動している。彼らは、個々の具体的な問題に即して、自分の判断を伝統文化によって整理し、行動の合理化を図っていた。黄遵憲の日本を通して西洋の近代化を導入するという発想も、このような思考様式によって、合理化されたのである。 以上のようなことを、論文の四部を通して、公使の何如璋と書記官の黄遵憲を、主役と脇役とに相互に交代して登場させ、「明治十年から十五年までの外交活動と文化交流における異文化理解」、という命題によって検証した。 |