学位論文要旨



No 110790
著者(漢字) 于,松
著者(英字)
著者(カナ) ユウ,ソン
標題(和) デアミノノイラミン酸(KDN)含有ガングリオシドの構造及び生物学的機能
標題(洋) STRUCTURE AND BIOLOGICAL FUNCTION OF DEAMINATED NEURAMINIC ACID (KDN)-CONTAINING GANGLIOSIDES
報告番号 110790
報告番号 甲10790
学位授与日 1994.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2832号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 井上,康男
 東京大学 教授 横山,茂之
 東京大学 教授 鈴木,紘一
 東京大学 助教授 室伏,擴
 東京大学 助教授 岩森,正男
内容要旨

 シアル酸は動物由来の糖タンパク質、糖脂質及びバクテリアに存在する多糖などの重要な構成成分であり、現在天然の糖タンパク質及び糖脂質において20種類以上の誘導体が知られている。

 KDNは2-ケト-3-デオキシ-D-グリセロ-D-ガラクトノノン酸の略称で、新規なシアル酸である。KDNの構造はシアル酸の五位の炭素に結合しているアミノアシル基が水酸基で置換されたものである(図1)。

図1.KDN(a)とシアル酸(b)Neu5Ac(R=COCH3)とNeu5Gc(R=COCH2OH)の構造。

 1986年灘野らがニジマス卵表層胞成分であるポリシアロ糖タンパク質(PSGP)分子中に微量成分としてKDN残基の存在を初めて見出して以来、ニジマス卵膜表面や雌体腔液にKDN含量の高い糖タンパク質が発見され、更に、バクテリアと両生類にもKDNの存在が報告された。これらの結果は、KDN残基はシアル酸と同様に様々な複合糖質の構成成分として生物界に広く分布していることを示唆しているが、1991年、私はニジマス精子に初めてKDNを含むガングリオシド、(KDN)GM3を発見し、KDNが糖脂質にも存在することを明らかにした[1]

 ガングリオシドはシアル酸を含むスフィンゴ糖脂質で、細胞膜に局在しており、その糖鎖が細胞間の相互作用や細胞表面での分子の認識に重要な役割を果たしている例が数多く報告されている。例えば、生理活性物質のレセプター機能、細胞増殖のモジュレーター、細胞接着、認識、免疫応答などへの関与、ニューロンシナプス伝達のレギュレーターとしての機能などが知られている。

 精子表面に見出された(KDN)GM3はニジマス受精過程において機能を持つことが推測され、非常に興味深い。また、ニジマスにおける精子以外の細胞、組織にKDN-ガングリオシドの存在の有無およびもし存在するならばそれらの機能にも興味が持たれた。本研究はデアミノノイラミン酸(KDN)含有ガングリオシドの検出、構造および生物学的機能の解明を目指して行われ、結果は以下のように要約される。

 (1)微量のKDN残基の検出及びその役割の解明に重要な道具として、KDN残基を特異的に認識するモノクローン抗体(mAb.kdn3G)を作製し、そのエピトープがKDN2→3Gal1→であることを明らかにした。

 (2)mAb.kdn3G抗体を用いて、ニジマス体腔液中に、新たなKDN-ガングリオシドを見出し、その構造及び局在部位を明らかにした。

 (3)ニジマス精巣中に、mAb.kdn3Gと反応する微量糖脂質成分を見出して、構造を決定した。また、これらの糖脂質が精子形成過程において時期特異的に発現することを明らかにした。

 (4)ニジマス精子表面にある主要糖脂質成分である(KDN)GM3が、糖脂質Gg3と特異的に相互作用をすることを見出した。また、ニジマス精子も糖脂質Gg3と特異的に接着することを明らかにし、この相互作用か受精時に精子と卵との接着機構として働いている可能性を示唆した。

 次に、研究方法および結果を具体的に記す。

 まず、(KDN)GM3を用いて、KDN残基を特異的認識するモノクローン抗体を作製することに成功した。精製(KDN)GM3とSalmonella minnesota菌の混合物を免疫源として、BALB/cマウスを免疫した。血中における抗体価上昇時の脾臓細胞とP3U1マウスミエローマ細胞を用いてハイブリドーマを作成し、抗体陽性コロニーから限界希釈法によって単一クローンを得た。このクローンの分泌する抗体(mAb.kdn3G)は、IgG3であり、(Neu5Ac)GM3をはじめ各種Neu5Ac-ガングリオシドとは全く反応しなかった。また、KDN2→3Gal配列をもつKDN-糖タンパク質にも結合すること、いくつかのKDN含有オリゴ糖鎖による抗体と(KDN)GM3との結合阻害実験の結果から、mAb.kdn3GがKDN2→3Gal1→を特異的に認識することが分かった。

 この抗体を用いて、雌雄ニジマスの様々な組織・臓器(脳、腎臓、肝臓、赤血球、筋肉、卵、体腔液、卵巣、精巣)に、KDN-ガングリオシド存在の有無を精査し、雌体腔液および雄精巣に幾つかのmAb.kdn3Gと反応する糖脂質を検出した。興味深く思われたのは、KDN残基を含む種々の複合糖質がいずれもニジマス生殖細胞に局在することであり、これらが受精及び初期胚発生過程において、特異的な細胞-細胞相互作用に関与する分子である可能性が考えられる。

 次に、ニジマス雌体腔液に存在するmAb.kdn3Gと反応する糖脂質の構造を化学分析(組成分析、メチル化分析)、機器分析(FAB-MS測定と一次元、二次元プロトンNMR測定)、酵素消化(エンドグリコセラミダーゼとシアリダーゼ消化)および免疫化学的方法により、(KDN)GD1aと(KDN)GD1a(+OAc)であると決定した(図2)。また、これらのKDN-ガングリオシドは、どちらも可溶性画分には存在せず、特徴的な細胞、あるいは、顆粒画分に存在することを明らかにした。また、これらは排卵後の卵巣にも存在するが、卵形成過程における卵巣および排卵直前の卵巣には検出されなかったことから、(KDN)GD1aおよび(KDN)GD1a(+OAc)は排卵過程に関連して合成されると考えられる。

図2.(KDN)GD1aと(KDN)GD1a(+OAc)の全構造。

 第三に、mAb.kdn3Gを用いて、新にニジマス精巣見出した(KDN)GM3以外の複数のKDN含有糖脂質の全構造を上述の方法によって、(KDN)GD1a、(KDN)GD1a、(KDN,Neu5Ac)GD1a、(KDN)GD1、および(KDN,Neu5Ac)GD1であると決定した(図3)。ニジマス精子形成過程における、これらのKDN含有ガングリオシドの発現量及び発現パターンをmAb.kdn3Gを用いたELISA法とTLC/Immunostaining法で調べた。まず、ELISA法で5月にはKDN-ガングリオシドが微量ながら検出され、その後発現量が増大し、排精直前(9月中旬)に最大となることが分かった。また、TLC/Immunostainingの結果から、(KDN)GM3、(KDN)GD1a、(KDN,Neu5Ac)GD1aは精子形成の全過程に存在しているが、(KDN)GD1と(KDN,Neu5Ac)GD1は時期特異的に発現され、成熟精子には(KDN)GM3のみが存在することが分かった。これらのことから、構造の異なるKDN-ガングリオシドが発現は時期特異的に制御されて発現されることが示唆された。

図3.(KDN)GD1a、(KDN,Neu5Ac)GD1a、(KDN)GD1、と(KDN,Neu5Ac)GD1の構造。

 (KDN)GM3はニジマス成熟精子に最も多量に含まれるスフィンゴ糖脂質で、免疫染色の結果から、精子の頭部と尾部の膜表面に遍在することが明らかとなった。また、KDN残基を持つ分子は、自分同士、あるいは他の糖鎖と会合しやすい性質を持ち、このような性質がKDN-ガングリオシドの機能と密接に関係することが考えられた。そこで第四に、(KDN)GM3が受精過程において、精子と卵の認識・接着に関与する可能性を調べる目的で、(KDN)GM3 を含むリポソームと固相化糖脂質との結合実験を行った。その結果、(KDN)GM3を含むリポソームは糖脂質Gg3でコートしたプレートに強く結合し、この結合はMn2+の存在で増強され、EDTAの存在下では阻害されないことが明らかとなった(図4a)。また、(KDN)GM3を多量に発現しているニジマス精子を用いて、生理条件下で様々の糖脂質をコートしたプレートとの接着性を調べたところ、精子はGg3と特異的に結合し、この結合はモノクローン抗体mAb.kdn3Gによって阻害された(図4b)。更に、ニジマス卵膜及び細胞膜から抽出された複合糖質中にanti-Gg3モノクローン抗体mAb.2D4と反応する画分が見出された。これらの結果から、精子表面にある(KDN)GM3と卵細胞表面に存在するGg3と同一のエピトープ糖鎖を持つ複合糖質が受精過程において精子と卵の認識、接着に関与していることが示唆された。

図4.(a)(KDN)GM3を含むリポソームとGg3をコートしたプレートとの接着。Ca2+、Mg2+、とMn2+存在下(●);Ca2+とMg2+存在下(〇);二価陽イオンを含まない(■);二価陽イオンを含まず、EDTA存在下(□)。(b)精子とGg3をコートしたプレートとの接着。コントロールヤギIgG抗体で処理した精子();mAb.kdn3Gで前処理した精子(■)。抗体で処理しない精子との接着を100%としたときの%値で示した。[1] Yu Song,Ken Kitajima,Sadako Inoue,and Yasuo Inoue(1991)J.Biol.Chem.266,21919-21935.
審査要旨

 シアル酸は動物由来の糖タンパク質、糖脂質などの構成成分である。KDNは2-ケト-3-デオキシ-D-グリセロ-D-ガラクトノノン酸の略称で、その存在は1986年灘野らによってニジマス卵表層胞成分であるポリシアロ糖タンパク質中に微量成分として初めて見出され、国際的に関心が持たれている新規なシアル酸である。1986年以降、ニジマス卵膜表面や雌体腔液にKDN含量の高い糖タンパク質が発見された他、バクテリアや両生類にもKDN-含有糖質の存在が相次いで報告された。

 本研究は、KDNを含むスフィンゴ糖脂質(KDN-ガングリオシド)の自然界における存在例は未知であったので、その存在を予見しKDN-ガングリオシドの発見・構造解析・機能等の解明を目指して開始した研究である。実際、1991年にニジマス精子にKDNを含むガングリオシドの最初の例、(KDN)GM3を見出し、KDNが糖脂質にも存在することを明らかにした。これによって、KDN残基はシアル酸と同様に様々な複合糖質の構成成分として生物界に広く分布していることが示され、糖鎖生物学なる新たな学問・研究分野をはじめ種々の生物化学研究分野においてKDN-複合糖質はますます注目を浴びている。

 本論文は4章からなる。第1章は微量のデアミノノイラミン酸(KDN)残基を含む糖鎖の検出及びその機能研究に有用なKDN残基を特異的に識別するモノクローン抗体を作製し、その特異性について述べられている。KDN-ガングリオシドの最初の例である(KDN)GM3を免疫源として作製したこの抗体(mAb.kdn3G)は、IgG3であり、(Neu5Ac)GM3をはじめ各種Neu5Ac-ガングリオシドとは全く反応せず、KDN2→3Gal1→鎖を特異的に識別することが明らかとなった。

 第2章はmAb.kdn3G抗体を用いて、新規なKDN-ガングリオシドを見出し、それらの構造及び局在部位などについて調べた結果が述べられている。すなわち、ニジマス雌体腔液に見出したmAb.kdn3Gと反応するKDN-糖脂質の構造を化学分析(組成分析、メチル化分析)、機器分析(FAB-MS測定、NMR測定)、酵素消化、および免疫化学的方法を駆使し、(KDN)GD1aと(KDN)GD1a(OAc+)であると決定した。また、これらのKDN-ガングリオシドが、細胞または顆粒画分に存在することを明らかにした。

 第3章はモノクローン抗体mAb.kdn3Gと反応する数種の微量糖脂質成分をニジマス精巣中に見出し、これらが(KDN)GD1a、(KDN,Neu5Ac)GD1a、(KDN)GD1、および(KDN,Neu5Ac)GD1であると決定したこと、及びこれらのKDN含有ガングリオシドの発現量及び発現パターンを詳細に調べ、精子形成過程において時期特異的に発現することについて述べられている。

 第4章はニジマス精子表面にある主要糖脂質成分であるKDN-含有GM3と糖脂質Gg3(アシアロ GM2)との特異的な相互作用を見出したことについて述べられている。(a)(KDN)GM3がニジマス成熟精子に含まれる主要なスフィンゴ糖脂質であること、(b)免疫染色実験の結果、精子の頭部と尾部の膜表面に(KDN)GM3が局在すること、ならびに(c)KDN残基を持つ分子が、自分同士、あるいは他の糖鎖と会合しやすい性質を有し、この性質がKDN-ガングリオシドの機能と密接に関係しているものと考えた。(KDN)GM3を含むリポソームと固相化糖脂質との結合実験を行った結果、(KDN)GM3を含むリポソームは糖脂質Gg3でコートしたプレートに強く結合することが明らかになった。この結合はMn2+の存在で増強され、EDTAの存在下では阻害されないことを明らかとした。また、(KDN)GM3を多量に発現しているニジマス精子は、生理条件下でGg3をコートしたプレートと特異的に結合し、この結合はモノクローン抗体mAb.kdn3Gによって阻害された。更に、ニジマス卵膜及び細胞膜から抽出された複合糖質成分中にanti-Gg3モノクローン抗体mAb.2D4と反応する画分が見出された。これらの結果から、精子表面にある(KDN)GM3と卵細胞表面に存在するGg3と同一のエピトープ糖鎖を持つ複合糖質が受精過程において精子と卵の認識、接着に関与していることを強く示唆した。

 以上、本論文は、新規なシアル酸であるKDNを含むスフィンゴ糖脂質の発見に始まりKDN-ガングリオシドの構造と機能の研究で明確に新たな知見を得たものである。審査委員会は、本研究の発想・方法・結果ならびに結果に基づく討論が十分妥当なものであると判断した。また、本研究はその発端と研究の計画・実施においてオリジナリティーが高く、研究の成果は国際的な基準において極めて質の高いものと評価した。

 以上の評価に基づき、本論文は本学博士(理学)学位論文として合格に相当するものであることを審査委員全員が認めた。

 なお、本研究は、指導教官井上康男教授および北島健助手等との共同研究に成る部分を含むが、著者が研究計画から実験および実験データの解析、考察すべての過程で主体的な役割を果たしており、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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